雪山の那岐山を普通長靴で
 
山の駅を過ぎて自衛隊の戦車C道の入口付近で数台の車が駐車して数人の人が登山準備をしている、駐車場への道は道路が凍結しているようだ。
私も此処に駐車してザックを取り上げ出発するもお茶がない、昨年から3回目だ。道の駅までバックし、仕入れてから普通の長靴で出発する。

登って行くに従って積雪も多くなる、トレース跡を踏んで行く、大神岩を過ぎると積雪量も格段に多くなり、ゆっくりと、トレース跡を歩くも、時々軟弱個所を踏みこんで片足が股下まで「ズポリ」、抜いて雪はらいと長靴に入り込んだ雪を取りながら登る。

家を出るまでは紐付きの長靴(雪侵入防止)で行く事にしていたのに、また登山靴にアイゼンも準備して居りながら、積雪についての注意がなかったために こんな状況になり反省しております。
2013年01月23日(水)22時25分
 
 
「宮籠」のルーツは

会社勤めをしている頃に「今晩は宮籠りなので早く帰ります」と言うと、周りの人が「誰がわるいのですか」と聞かれた。

そう言えば子供の頃に祖母が「○○さんの宮籠に行く」と言っているのを聞いた事がある。 辞書によると、「祈願などのために神社にこもること」と記述されている。
いつの時代からか知らないが昔は難病の人があると集落単位で神頼みをしていたようですね。

さて、私の集落では趣旨は違いますが「宮籠」の行事を毎年一月八日、五月八日、九月八日に公民館に祭壇を設け、参拝して(今年は宮司を招待)から料理は持寄りで御神酒を頂きながら諸々の雑談をしております。
このような行事は場所によっては「お日待」と言って同様な行事をしていたようですが、殆どの所がなくなっておりますが何故か私の集落のみがいまだに続いております。

村の文書によると
昔は毎月八日の晩に各戸順番に祭壇を作り、御神酒と夜食を出しておったが、支那事変に始まり大東亜戦争となるも、それに相当した物資でまかない毎月続けていたが、昭和33年から上記の三回となり当番は四戸単位で世話をし、費用は四戸の負担とする。

何時の時代からか当番は三戸、御神酒は集落で負担し料理は持寄りでしております。
「しょうごく」と言って正月・五月・九月に実施するも「何故この月」になったのか知りたいです。

2013年01月15日(火)08時40分

 
頂上で鉄人さん、Mさんと

那岐山で頂上近くを登っていると後方で人の気配を感じ振り返ると鉄人さんが居られる。道を譲るも、「先に行きなさい」と言われ頂上まで先頭に。
頂上には誰も居ない、登頂時間は2時間10分、鉄人さんは途中で4人組と同伴したので1時間10分との事。

頂上での展望は360度の方向が見られるも春霞みで遠くは“ぼやけて”いるが鳥取方向は鳥取市が篭山の後方にぼんやりと見えた。
鉄人さんは「今年は何年に一回あるか、無いかの素晴らしい日があり、鳥取の東から西の大山まで連続した日本海(水平線か)を見た」と言われる。

 鉄人さんの下山の後、食事しているとMさんが登って来られ、私の長靴を見て「長靴がいいでしょう」と言われる。年末・元旦登山も長靴だ、登山靴よりも軽くて歩き易い感じがする。
あれが「一昨日死亡事故があった明神岳だ」と指さされるも「ぼんやりと見えたり、見えなくなったり」、年末は北方向の山を教えて貰ったので今日は東方向の後山・駒ノ尾・日名倉など見る。私もこの様になりたいものだ。
写真は鉄人さん(掲載了解済)と下山したBコース(山稜)
2013年01月08日(火)10時24分
 
 
観音さんは何処え行ったの?


年末の登山時に“あれー、観音さんがない”、誰かがいたずらして雪中に「埋もれた」と思ってました。
元旦登山時に在ることを期待して登りましたが残念、周辺を探すも見当たりませんでした。
何かの理由で誰かが移動されたのでは、移動の目的が達成されたら返して下さいね。

次回の登山時には在ることを期待してます。
左は昨年11月28日 右は今年の元旦
2013年01月04日(金)09時27分
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