石碑・石造物
  美穂地区内にある石碑・石造物を記載した。但し神社、仏閣境内にある石碑・石造物は省略。

所在地 鳥取市向国安
妙見宮の灯篭と石碑
場 所 公民館付近
銘 文 灯 篭 表面 奉土 妙見宮
           裏面 安政六年(1860年)
     石 碑 表面 天下泰平 南無妙法蓮華経
  国土安講中
           裏面 明治口口巳丑年六月十三日建  之
向国安は国安村の出村で邑美郡に属し、宝永六年(1709年)には独立した村として扱われていた が、藩への届けは天保五年(1834年)に国安村]と届けられている。

常夜燈
場 所 向国安神社附近
銘 文 表面 常夜燈 若連中
    裏面 明治七年甲成十一月吉(1874年)

いわれは不明。消防小屋上側にあったものが、農地区画整理(昭和40年代)の時、現在の位置に移された。





南無阿弥陀仏石造
場 所 向国安神社附近
銘 文 表面 国家安泰 寛政元年酉六月日 南無阿弥陀仏
         五穀成就 向国安念佛講中

寛政元年(1789年)、向国安村の念仏講中が建立いわれは不明。当時向国安は国安村の出村であった。このころ、千代川はたびたび氾濫した。
建立の前年天明六年(1786年)には8月と9月に2度の水害があり、9月の水害には溺死者が多数出たと記されている。(千代川史)
新修鳥取市史にも1786年の水害でかなりの被害があったことが記されている。
つまり、「念仏講中」石造物は供養塔で南無阿弥陀仏を唱える宗派により水害により亡くなった者の供養と作物の豊作と水害に遭わない事とを願って建てられたと思われる。 また、「講中」は1770年代から1830年代に多くみられた。(新修鳥取市史より)
 
所在地 鳥取市竹生
石 塔
場 所 作業場横  高さ1.27m(左)  高さ1.55m(右)
銘 文 表 面  本結大縁 南無妙法蓮華経○○  寂光為土
     右側面 本願主  金谷助ェ衛門
           功徳主  近藤氏
     左側面 文政八年(1825年)乙酉十月 日 竹生村中


銘 文 表 面 自他倶安 願主 順ろ日口
          南無妙法蓮華経
          回帰寂光 竹生村 同 講中


     右側面 文化4年卯年(1807年)二月吉日
     左側面 奉 唱首題二千部
           書寫一石一字妙典全部   供養塔






常夜燈
場 所 公民館前  高さ 2.27m
銘 文 表 面 常夜燈 無量神力
     右側面 嘉永二年酉九月吉日(1849)
     左側面 若連中

場所は金谷屋敷とも“よんでいる”(美穂村初代村長)




石碑 (筧雄平翁碑)
場 所 美和小学校校内      高さ 2.89m
銘 文 表 面 頌徳  筧雄平翁碑
     裏 面 □□□ 建立 □□□

石 板 表 面 頌徳碑の推移
     1 大正七年五月十四日 旧美穂小学校門横に建立(気高郡全村の企画)
     2 昭和四十八年五月十三日学校創立百周年記念事業として現在位置に移転(実行委員会)

3 昭和六十三年十二月十日 碑の周辺装飾解説板等の資材施行寄附
(美和小学校前PTA会長 上田孝春氏)
   業績
    1、原野の開拓と造林事業の推進
    1、学資金の寄付と学校教育の推進
    1、私財を投資して私設図書館の開設
    1、農繁期託児所(保育所の創始者)の開設
      「雄平翁は1842年(天保13年)下味野に生まれる。村のため、人のためにつくし多大の功績を 残し1916年(大正五年)74歳の生涯を終えた」と記されている。
備 考:昭和48年建立
 
所在地 鳥取市上味野
千代彌榮石碑
場 所 玉屋神社入口付近
銘 文 表 面 千代彌榮
    裏 面 昭和53年7月(1978)  千代土地改良区
土地改良事業の完成を記念し、当時の理事長 加藤重蔵氏が平野を一望できるこの地を選び建立したと伝えられている。





御神燈(常夜燈)
場 所 藤岡孝宅の横  高さ 2.55m
銘 文 表 面 奉上  御神燈
    裏 面 なし
    左側面 當村 若連中
    右側面 天保十四卯五月

天保十四年(1844)とあり、天保の飢饉の折集会所辺りに建立、その後、願行寺前に移転していた。
明治十八年から廿年頃、美穂村絵図(公図)作成の際、その位置を起点と定められた。その後、寺の改築に伴い幟竿の横(現在の位置)に移転した。
現在、お寺の起点には基準石が設置されている。

石碑(朝日野源ヱ衛門塚)
場 所 岩崎  高さ 1.5m
銘 文 表 面 朝日野源ヱ衛門塚(分村上初代)
    裏 面 なし
    左側面 上味野青年倶楽部
    右側面 下砂見石工 山本善十郎 明治四十四年九月建立 (1911)

因伯相撲(田舎相撲)五両まで出世した力士を称え若連中が建立。当時、宮相撲(倉田八幡宮、宇部神社)や、ほうか相撲(願行寺)など相撲が盛んだった。
 
所在地 鳥取市朝月
中村富榮之塚
場 所 旧JAいなば美穂支所前  高さ 2.2m
銘 文 表 面 八幡家  中村富柴之塚
    左側面 大正十五年三月建之(1926年)
    裏 面 発起者 朝月
            佐治村余戸  門弟有志
        後援者 同青年会
               所有者(管理者)朝月部落
(本名)坂本清古(屋号)八幡屋 (俳号)中村富榮 大正14年没(1925年)(八十歳超えていたとのこと?)

若い頃、鳥取旧市内の人と二人、大阪中村一座で3年以上修行の後、帰島し、村人に村芝居の振り付け、立ち回り、座回り、化粧等の一切を教える指導者であった。
地元の美穂、大和、神戸地区はもちろんのこと、鳥取市内の劇団「つる圓」と深い関係をもちながら市内の大黒座あるいは鳥取市内および郡家、用瀬、佐治、智頭等 の八頭郡一円そして遠くは津山方面まで上演・指導にあたった。(孫に当たる坂本衛氏談 平成七年(1995年) 十一月二十三日)

 幕末から大正時代村々では、祭り狂言など称して、若者達が芝居の真似をする等当時は農村において歌舞伎芝居の隆盛と農村社会への反映が見られた。
 これを村芝居といい、歌舞伎、人形浄瑠璃、義太夫、狂言等があった。
 部落共同体の共同行事である祭礼の奉納芸能、願芝居(大漁祈願、五穀豊穣、雨乞い、悪疫退散等)死者の供養を目的とする回向狂言等、長寿・全快などを 祝賀する祝い狂言として上演。
 時期:田植え、しろみて、盆興行、収穫後
 時間:半日間
 場所:神社境内、田圃、民家のかど
 謝礼:飲食及び花代
 当時のメンバー:朝月  岸本藤吉(義太夫・琵琶弾き) 岸本義教(琵琶・語り) 半田亀蔵・増井正一 上田豊治・半田政治 
一方、職業的歌舞伎一座 の地方巡業も盛んであり旅芝居と呼ばれた。


慰霊碑
場所 旧JAいなば美穂支所横
銘文 表面 慰霊碑
   裏面








記念碑
場所 美穂会館入口前  高さ 2.2m
銘文 表面 農村モデル事業 記念碑 参議院議員 小林国司書
   裏面 地区  大和・美穂・大正・東郷・豊美
      事業費 1,231,000,000円
      工期  昭和50年〜昭和61年 (1975年〜1986年)
      施工  鳥取市
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