山名氏の系譜(その2)


山名氏は明徳2年(1391) に幕府に対して反乱を起したが鎮圧され、存続を許されたものの、領国は但馬(守護職は時煕)、伯耆(守護職は氏之)、因幡(守護職は氏家)の3力国に減らされた。

  〔山名氏再興〕
時煕は惣領として分裂した一族の和解と再結集に努めている。
応年6年(1339)に発生した応永の乱で戦功をあげて、山名氏は備後、安芸、石見の3ヵ国の守護に任じられ6ヵ国の守護となる。(明徳の乱から8年で)

因幡山名氏は、時氏から氏冬、氏重、氏家、煕貴(高)と守護職を継承し順調に進んでいたが、嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を暗殺した。
嘉吉の乱に際して、将軍とともに赤松邸を訪問していた煕貴が討死してしまった。思いがけない煕貴の死後、宗家但馬山名持豊(宗全)の子勝豊が養子となって家督を継いだことで、 因幡山名氏は但馬山名氏の影響下におかれるようになった。

しかし、勝豊が因幡守護に補任された形跡はなく、煕貴に現れる因幡守護は煕幸で、煕幸の次は伯耆山名氏から入った豊氏が守護職を継いでいる。
通説として語られる煕貴・勝豊の位置づけはもとより、因幡山名氏の世系は混乱をきたしているように見える。

「応永の乱」
  1. 室町時代の応永6年(1399年)に、守護大名の大内義弘(周防・長門・岩見・豊前・和泉・紀伊6ヵ国の守護)が室町幕府に対して起こした反乱である。
  2. 大内義弘は、朝鮮との外交・貿易の独占による富強を恐れた足利義満に警戒され関係が悪くなった。
  3. 大内義弘は堺に籠城して応永の乱を起こした。
家督を継いだ、山名持豊(宗全)は嘉吉元年(1441)に赤松氏討伐の総大将として貢献した(嘉吉の乱)。この功績によって、備前、美作、播磨などの守護職を与えられ、再び全盛期を築く。(領国は10ヵ国に回復)
つうせつによれば天文元年(1466)、因幡山名氏は時氏の頃からの本拠であった巨濃郡二上山城から、・・郡布施の天神山に新たな城を築いて本拠地とした。

権勢を背景に、持豊は幕政に深くかかわるようになる。しかし、それが原因で管領の細川勝元と対立するようになり、その対立に将軍の跡継ぎ問題もからんだことで、「応仁の乱」 が勃発。この時、宗全は西軍の総大将として同じく東軍総大将の勝元と戦ったが、乱の最中である文明5年(1473)に宗全は病死する(同年に勝元も急死)。
この戦乱が遠因となって室町幕府は衰退し、群雄割拠の戦国時代の幕が開く。

「嘉吉の乱」
  1. 嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。
「応仁の乱」
  1. 応仁元年(1467年)に発生、文明9年( 1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。(八代将軍義政の時代)
  2. 山名宗全が西軍を率いて細川氏と11年間にわたって戦ったが、乱後、山名一族は急速に衰退したといわれています
戦国時代になると、山名氏は出雲の尼子経久・晴久、安芸の毛利元就などに攻め立てられ領国を減らす。 (その3へ)

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