山名氏の系譜(その3)



群雄割拠の戦国時代になると、山名氏は出雲の尼子経久・晴久、安芸の毛利元就などに攻め立てられ領国を減らす。さらに、東から豊臣秀吉が率いる織田軍の攻撃を受け、因幡一国を支配するのがやっと という有様になってしまう。

 やがて、秀吉に降伏し、名門守護としての山名氏は終わりを告げる。
ただ、その後も山名氏の一族は、毛利氏の家臣や江戸幕府の幕臣として生き延び、明治時代を迎えた。



戦国時代へ(因幡の擾乱)
山名政豊は三男の山名致豊を後継者に決めて、国内混乱の決着をつけた。しかし国人衆の要求を呑んだこと、またその過程で国人衆の支持を取り付けるために各種の特権を与えたため、守護権の縮小に繋がり、 結果として国人衆とりわけ守護代の垣屋氏が力をつけた。
家臣筋である垣屋氏に城之崎城(豊岡城)を制圧され、より守備力がある丸山川対岸の此隅山城に移ったが、そこも攻撃されるような状態となった。
さらに出雲の尼子経久らの圧迫を受けるようになり、次第に山陰道山陽道の領国は奪われていった。

更に永正(1504~1521)から享禄(1528~1532)にかけて但馬・因幡両守護家では内紛状態に陥った。但馬では致豊が排除されて弟の山名誠豊が擁立され、因幡では山名豊時の子である山名豊重・豊頼兄弟が守護を争った。
享禄元年(1528)には誠豊が死去し、甥で養子の山名祐豊(致豊の子)が但馬守護家を継ぎ、同じ頃に豊頼の子・山名誠通が豊重の子・豊治から因幡守護を奪ったことで一旦は内紛は収拾された。

但馬の山名祐豊は但馬の有力国人衆を次々と武力で征した。更に一族で因幡山名家の山名誠通が尼子氏の従属下に入る(尼子晴久から偏諱を得て改名(久通)し、布施天神山の東方にある久松山に出城を築いて但馬山名氏に対峙し、 尼子に因幡国の支配権を譲り渡す)とこれを討ち(天文15年(1546)、天神山の久松通を攻め、敗北を演じて久通(誠通)を城外へと誘い出し、多治見峠において討死を遂げた)。弟の豊定を因幡へ派遣し、豊定は天神山城に入ると因幡守護代(陣代)となり、 「因幡守護家の山名誠通の遺児が成長するまで政務を後見する」という形で因幡を実質支配した。
  1. 戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、 近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。

また、因幡の国人たちに対してもこれを武力で従え、地位を失いつつあった守護大名山名氏を但馬因幡の戦国大名山名氏へと成長させた。
なお、正式な守護職は幕府 より、出雲尼子氏に与えられていた。
豊定の没後はその地位を、豊定の子の山名豊数が継承し、また誠通の子山名豊儀が一時期、出雲の尼子氏に支援されて因幡守護家を再興していたともいわれている。
さらに、新興勢力である毛利元就とも手を結び、あるいは対立し、因幡国人および因幡守護家を支援して勢力を拡大しようとする出雲尼子氏ら周辺諸国と抗争を続けた。 (その4)へ

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