郷土誌だより(令和2年12月号)
武田高信(1529?~1576?)とは、因幡の戦国武将である。山陰地方の隠れた下克上武将。 下克上 1563年、このような状況を見て、武田高信もまた山名氏からの独立を企むようになっていた。 第一のターゲットは父の遺産ともいえる鳥取城を奪取する事である。当時すでに大勢力への道を歩んでいた毛利氏と結び、まずは鳥取城を占拠する事に成功した。 続いては大義名分代わりに傀儡当主を擁立するべく行動を始める。まずは因幡西部・鹿野城を拠点としていた因幡家末裔・山名豊成を毒殺。続いて守護の館を兼ねる 布勢天神山城を攻めて、山名豊数を但馬に追放した。代わりの因幡守護として祐豊の弟・山名豊弘を形式的に擁立して、因幡国の実権を握ることに成功する。 …とはいえ、因幡は相変わらず不安定な事には変わりなく、取って代わろうという国人衆たちとの対立、更には但馬山名氏の支援を受けた尼子再興軍まで乱入してきたため、 戦国大名と名乗るには力不足な状況であった。弟や息子も戦死するなど、戦況は決して有利とは言い切れなかった。 凋落 1573年、豊数の弟で後を継いでいた山名豊国と、山中鹿之介率いる尼子再興軍が大勝利を挙げ、遂に高信は失脚する。 鳥取城は新たな因幡守護である山名豊国 に明け渡し、落ち延びる高信と山名豊弘であった…が、 この直後に豊国が尼子再興軍を捨て毛利氏と手を結んだことで、いよいよ二人は窮地に追い込まれる。 「毛利氏の後ろ盾で山名&尼子軍と戦う」というのが彼らの基本方針だったが、それが完全に崩壊してしまった。 なんとかツテをたどって毛利氏の庇護を求めようとする高信たちであったが、山名氏の要望もあって取り合ってもらえず、まもなく高信は死去したとされる。その最期は諸説あって謎も多い。 ・1573年3月、高信、不慮の死を遂げる(と、小早川隆景が書状に残している)。 ・1573年8月、高信失脚、豊国に鳥取城を明け渡す。 ・1575年、毛利氏あてに高信の助命嘆願が送られる。 ・1576年、高信、織田氏に内通したとして豊国に切腹させられる(と、吉川元春が書状に残している)。 ・1578年、高信、豊国に暗殺される(という説話がある)。 なんか全部あわせると3回も死んでいるが、とにかく山名豊国が因幡を掌握する為に武田高信を死に追い込んだ、と見るのが自然と思われる。豊弘はその後豊国と和解したようだ。 遺児・武田助信はあちこちを流浪した末に、関ヶ原の戦いの後、山名豊国に誘われて家臣となった。色々因縁はあったものの、結局は山名家臣という元の鞘に納まって、子孫は幕末まで村岡藩士として仕えたという。 | |||||