山名氏の系譜(その1)

 室町時代から戦国時代(江戸時代の前)、現在の鳥取県など山陰地方一帯を守護職などで勢力を誇ったのが、守護大名の山名氏である。
因幡の国などを長年に亘って支配していた山名氏の系譜を記述してみよう。

山名氏に関わる主な歴史

第56代清和天皇を祖とする武家の一門(清和源氏の支流)であり、もともとは上野国緑野郡山名郷(現・群馬県高崎市)の出だった。

 鎌倉時代末期、当時の山名氏当主・時氏は、縁戚の新田義貞に従うも、のちに、同じく縁戚の足利尊氏に臣従し、功績をあげたことで伯耆守護の座を得る。(建武4年(1337))


当時の山名氏が拠点としたのは現在の倉吉市巌城にあった田内城だ。勢力を拡大して行き、現在の近畿地方と中国地方にあたる国の守護職となる。
当時、全国は66ヵ国に分かれていたが、そのうちの11ヵ国が山名氏の守護領国となった。そのため、山名氏は「六分一殿(六分一家衆)」と呼ばれるようになった。

山名時氏は、在地領主層との間に守護被官関係を結び、彼らの本領を安堵し、また彼らの要求を組織しつつ荘園・国衙領に対する実質的な支配権を拡大して 伯耆から因幡・出雲・隠岐など山陰地方一帯に勢力を拡げていった。
(地方との結び付けを断つて中央政界に埋没していった名和氏とは異なっていた)
貞治2年(1363)頃、時氏は当時知行していた5か国(因幡・伯耆・丹波・丹後・美作)の守護職をそのまま継承するという条件で幕府方(足利幕府を開いた北朝の尊氏)に帰参し、ここに室町幕府の承認を得て山名氏による因幡・伯耆両国支配が最終的な確率を見た
こののち伯耆は嫡子師義とその子孫に、因幡は時氏の三男氏冬とその子孫によって代々相伝知行されることとなった。


だが、あまりに勢力が拡大したことを危険視した3代将軍・足利義満が、山名氏の内紛を画策。
その策にはまった山名氏は一族間で争うこととなり、明徳2年(1391) 幕府に対して反乱を起こす。(明徳の乱)
乱は鎮圧され、山名氏は存続を許されたものの、領国は但馬、伯耆、因幡の3力国に減らされ、勢力は大きく後退した。

明徳の乱
  1. 明徳の乱とは1391年に山名家(氏清、満幸)が室町幕府に対して起こした反乱である。が起こした幕府に対する反乱のこと。
  2. この反乱は幕府の権威を増やしたかった足利義満の思惑があった。。
  3. 明徳の乱が起こる一つの理由として山名家のお家騒動があり、足利義満はこれを利用して挑発した。。
  4. 明徳の乱によってかつては11ヵ国を治めて六分の一衆と呼ばれていた山名家は3カ国に減らされ衰退した。
但馬、伯耆、因幡の3ヵ国となるも山名氏の活躍によって10ヵ国に回復   (その2へ)


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