生涯・尚徳大学の社外研修で、岩美町 月山富田城 作楽神社ほか  長伝寺 塩谷写真館
神崎神社
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『岩美町の歴史と人物』(その2)
平成29年7月14日(金)
童謡と彫刻の郷→横尾の棚田→山陰道蒲生峠越→岩井廃寺、塔心礎石(鬼の碗)→御湯神社
1.童謡と彫刻の郷(田村虎蔵生誕地と山本兼文工房)

  (1)田村虎蔵(明治6年〜昭和18年 70歳)
鳥取尋常師範学校卒業後、因幡高等小学校訓導
明治25年東京音楽学校(現東京芸大)校長 村岡範以馳(八頭郡出身)が帰鳥、「普通教育における音楽」として講演。これに感銘し翌年東京音楽学校に入学。
永井幸治(大阪音大創設)、林重浩は同時期、岡野貞−は4年後に入学。
「言文一致唱歌」の提唱、「児童発声法」に功績があり、東京市視学の重鎮として多くの教え子を音楽界・音楽教育界に送り出した。
旧居裏の新宿区築土八幡境内には「田村虎蔵顕彰碑」が建てられている。
 (2)山本兼文工房(大正7年〜平成4年 80歳)

岩美町白地岡崎家の次男に生まれる。
勤務地の溝口町二部で同町出身の辻晋堂に出会い絵画から彫刻に進む。
若桜橋のモニュメント、湯かむりの搭、稲村三伯像など県内各地の学校や鳥取駅広場、お堀端等彫刻家であり、同時に教壇に立つ教師であった。
 
2.銀山の間府(歩) 横尾の棚田(車窓から))

(1)銀山間府(歩)   猛暑のためバスから銀山村と看板を見る
文禄2年銀山村 三日月山から銀が発見された。秀吉が因幡地方を治め、銀山は秀吉の直轄領となり鳥取城主宮部善祥坊継潤の支配下に。
銀の生産量は急激に増え、慶長3年の「秀吉御蔵納目録」では、生野銀山に次ぐ全国2番目の運上銀を納めている。br> 「因幡民談記」(小泉有賢)では、まるで蟻の熊野詣のように夥しい人が集まった話、石川五右衛門が巡検氏と偽り銀を編し取った話、流し山で 山崩れを起し多<の死者がでた話を記載。


 (2)横尾の棚田(日本の棚田百選)
もともと水が豊富で地滑りを繰り返した地域。地すべりにより土壌がよく 混ざり、肥沃でミネラルも多いこと、さらに日当たりもよく美味しい米が取れる。
棚田は国土や生態系の保全・心安らぐ景観をわれわれに提供してくれる。近年、棚田の維持が難しくなっている。平成9年から地域の人たちは、「いがみ田を守る会」を結成し、棚田オーナー制度を実施。
県内外のオーナーが棚田の保全や季節ごとの行事に参加し地域の人たちとの交流が図られている
 
3.山陰道蒲生峠越〔国指定史跡平成17年3月12日指定〕

近世の山陰道は、鳥取と京都を結ぶ主要街道として鳥取藩が整備、但馬往来と呼ばれていた。
鳥取を基点に一里塚を築き、宿駅を置いた。享保11年(1726)の「因幡国大道筋里数」によれば、鳥取から蒲生峠まで 6里12町(約24.9km)とされている。
山陰道蒲生峠越は、岩美町塩谷から山道に入り、兵庫県境の蒲生峠で県道に合流。県道は明治25年(1892)に付け替えられた新道です。 山陰道と県道との合流点付近には、往来人の安全を祈願した「延命地蔵大菩薩」がある。
  『延喜式』によると、山陰道8ヶ国に設けられた駅は37駅、蒲生峠に至る前の駅は「面沼(メヌマ)駅」で、下って因幡側 は「山崎駅」であった。……因幡、出雲の国府を 往還する官人達はこの蒲生峠を越えた。
室町・戦国時代は、軍馬進攻の道として利用。秀吉の因幡侵攻にも再三利用された。 慶応4年(1868)、山陰鎮撫使の一行、明治14年の参議山縣有朋も鳥取県再設置問題のため来県した折も、駕籍に乗って峠を越えた。

岩井廃寺、搭心礎石(鬼の碗) (国指定史跡 昭和6年11月26日指定)
大きさは日本最大級(長径3.64m、短径2.36m)、二重の円孔(径77.5cm小孔20cm)、柱座1.4m、新羅に見られるつくり出し(3cmの盛り上がり)。
南側に「大門」の字名、グラウンド入口付近からお寺の軒丸瓦(金堂跡?)の出土などから、白鳳時代の発起寺式伽藍配置の寺院が建っていたと思われる。
古代建築学者の研究によると、礎石の穴の直径(77,5cm)の40倍が搭の高さとされており、31mの三重塔が建っていたと考えられている。 心礎石の周りに16個の礎石があったと思われるが、今は少ししか残っていない。出土した軒丸瓦は4種類、瓦の年代等から少なくとも3回の火災があったようだ。
昭和6年春伯書国分寺調査に来県した梅原末治博士を木山竹治氏が案内し、礎石と出土瓦を検分、この一回の調査で国の史跡となった。
昭和33.10.15古代建築福山敏男博士の現地調査の新聞報道により、この廃寺の心礎石は日本最大級の大きさ、新羅形式の円孔つくり、白鳳期の特徴と伝える。

※岐阜市岩井の延算寺の本尊「薬師如来像」(大正3年、国重要文化財)は、胎内文書から9世紀初め因幡国巨濃郡岩井から移されたとある。関係は?
※ 「上淀廃寺」で焼けた壁画出土した時、同じ可能性があるのは岩井廃寺と言われた。
※ 県下に20以上の廃寺跡があるのに、いずれも平安時代末頃に廃寺となっているのは、何故?
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