筧 雄平翁

筧 雄平翁は天保13年(1842)〜大正5年(1916)に鳥取市下味野の豪農、筧橘五郎の長男として出生。世はまさに幕末多事動乱の時代であり、ペリーの黒船来港の折りには、雄平翁12歳。明治維新の変革を迎えたときは26歳であった。

地方改良公益家として知られ、明治9年、35歳の若さで村民を説き、明治45年までの実に36年間にわたり、林野43町、田畑6町余りを開拓、村の富を増大した。

雄平翁が受けた教育は少年時代もっぱら下味野神社の神官の下でなされたといわれているが、更に進んで、正垣適処の塾に学ぼうとして許されず、この頃の想い出が、後年教育への強い情熱、関心となって示され、学校教育に対しては、その財のあるところから惜しみなく多額の寄付を続ける。また、私設図書館の開設、同和教育に努力した。

特に雄平翁が全国にその名を知られるものとしたのは、託児所の開設である。
これは我が国最初のものとされている。伝えによると、下味野の願行寺に属する庵寺があり、円随という尼僧が子供好きであったことから、農繁期に幼児を預ける農民が出てきたため、明治23年5月、雄平翁がこの庵寺を修築し、遊び道具を整備し、いわゆる託児所として発足したものである。

尼僧円随が他に移った後は、雄平翁の姉ふじと、神官小森一学婦人がこの仕事を引き継ぎ、さらに明治32年頃、庵寺を移転して、その跡に2階建ての家屋を造り 、自書の「下味野子供預かり所」の看板を掲げ、階下で子供の設備、2階が青年の集会所とした。
これが我が国の保育所の元をなすものである。
 
雄平翁碑
雄平翁碑(左は開拓碑 右は保育事業碑)
 
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