矢部貞治

矢部貞治氏は明治三五年(1902)〜昭和42年(1967)に鳥取市向国安で出生。鳥取一中2年の折、校長であった林 重浩氏の世話で四国出身の矢部判事の養子に入り、矢部姓を名乗る。

東大政治科を卒業。矢内忠雄博士に教育者になることを勧められ、政治学者の道を進むことになる。

昭和10年より2年間、文部省在外研究者として米・英・仏に留学

昭和14年、東大教授。日華事変が始まって、時の近衛文麿公に懇望されて、そのブレーンとなる。

昭和20年、42歳の折、内閣嘱託となるが 8月終戦とともに占領下では公職につかないと宣言。これより終戦後の第二の人生が始まった。

昭和30年、拓殖大学総長となる一方行政審査会委員。
昭和36年、憲法調査会海外調査団団長として、北・中・南米7ヶ国を訪問。 昭和39年、拓殖大学を辞任。爾来、政治評論家として、講演・テレビ・ラジオ等で縦横に活躍する。

単なる評論家でなく、自ら政治の場に立つことなく、他人をして、自らの理想を実行させる意欲を持ち、進歩的保守主義をつらぬき、世論の審判官的 役割を果たした偉大な政治学者である。
 
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