入会山の草山争論
水田の多い平地の村では田肥しの草は不足がちであった。
享保年間(1716〜35)以降数多くの村々入会山をめぐる村々の争論が記録されている。(在方諸事控)
刈敷の確保は、農民にとっては死活問題であったから、しばしば争論が長期にわたって繰
り返され、時には傷害事件に発展することもあった。
刈敷:水田の肥料 牛馬の飼料 「ふみごえ」の原料
慶応3年(1867)5月竹生の若者が猪子村の茅植場の茅を刈り取ったことにあったが、
猪子村も、旧来の入会地を畑に開発するなどしたため採草地が減少しており、双方に感
情的なしこりが存在したため争論となった。
当該地は上味野・横枕両村とも入会地としており、翌4年この4村宛てに藩の「裁許
状A」が出された。(慶応4年7月7日)
裁許を受けた4ヵ村は協議のうえ、採草に関しての「草山議定書」Bを作成した。
(慶応4年7月)
竹生村では裁許状が出された同じ日に「村儀定締合C」が作られた。(慶応4年7月7日)
2 向国安・7か村(長谷、玉津、横枕、猪子、赤子田、倭文、竹生)草山争論
18世紀初頭に成立した新田村落である。当初の草山がどこに設定されていたかは不明
であるが少なくとも19世紀には長谷・玉津・横枕・猪子地内を草刈り場としていた。
この地域は赤子田・倭文・竹生の入会地でもあり、個人所持の内林も混在し複雑な入会関
係を形成していた。
後発の新田村落であったので、入会地利用における制約も少なくなかったようである。
(1) 文化2年に最初の草山争論が起こり、藩の裁許が申し渡されたが詳細は不明。
(2) 安政期の論争は、草刈り場所と刈り場との往復に使用する道筋について争う。
向国安・7か村との訴訟の形をとった。安政5年(1858)に藩の裁許状D
(3) 明治元年(1868) に3度目の草山争論が起きた。
この時の裁許状 は、文化2年と安政5年の裁許を前提とし、改めて採草地を見分したうえで、
細かく採草地域の境界が定められ往復の道も規定された。