生涯・尚徳大学の社外研修で、岩美町 月山富田城 作楽神社ほか  長伝寺 塩谷写真館
神崎神社
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『岩美町の歴史と人物』
(その1)
鳥取藩台場跡→ふるさとの人物→小畑3号墳→新井三嶋墳丘墓→ (その2へ)

その2(童謡と彫刻の郷→横尾の棚田→山陰道蒲生峠越→岩井廃寺、塔心礎石(鬼の碗)→御湯神社)
1.鳥取藩台場跡(浦富お台場跡) 
鳥取藩台場跡は、鳥取藩が江戸時代の幕末期に領内8ヵ所に築いた台場跡の総称である。
文久3年(1863)築造。県東部に現存する唯一のもの (浜坂/賀露/橋津/由良/赤碕/淀江/境にもある)。 鳥取藩執政職 鵜殿長道が幕府鎖国政策にもとづいて築造したもので、海面と海浜との交線の近くの砂丘地に赤土を盛って、幅10m、高さ3mほどの土塁が約90m にわたり扇状に広がる、大栄町六尾(ムツオ)で造られた4門の砲が備えられた。

台場の守備には農民(民兵)を組織。神職隊(神官)、力者隊(相撲取り)も組織。庄屋が名字帯刀を許され指図に当ったようで、洋式調練に励んでいた。
 「岩井郡海辺村絵図」(県立博物館所有)には、浦富台場は2つ描かれており、汀線:から同一線上にあり、2つとも「御台場」と記されている。 文久3年6月、鳥取藩守備の大阪天保山砲台で英国船を砲撃したのが(届かなかった)、因伯海岸にも外国船の報復があるかも知れないと警戒し、海岸防備に当った。
2.ふるさとの人物(浦富海岸4人のレリーフ)
    1. 鵜殿長世(天明8年(1788)〜文敢7年(1824) 第10代)
      鵜殿氏の元は紀州熊野の別当、長忠の娘(西郡の方)が家康の娘(督姫一良正院)を産む。督姫は小田原北条氏直に嫁ぐ。後池田輝政に再嫁、五男二女を産む。
      輝政亡き後忠継の岡山に移る。このとき良正院は忠継の補翼として、長忠の子長次をと家康に懇願。忠継・忠雄亡き後、池田光政と光仲の国替えにより鵜殿長次・ 長之親子とも鳥取へ来る。
      所領の多くを岩井郡に持ち浦住に陣屋を持った。5,000石。長春(4代)のとき、執政(家老)となり、明治まで12代238年間続いた。天保13年(1842)長発(ながのり)のとき 自分手(政治)を任され町浦住を町浦富、元浦富を浦富と改めた。
      桐山城山麓に代々の墓(2〜11代、他に3基)。(菩提寺鳥取妙要寺にも墓)

    2. 垣屋光成(播磨守宗歓 〜文禄元年(1592) 70余歳)
      山名氏に従い関東より但馬に来た。光成の時秀吉に味方して鳥取城攻略に功績有り、巨濃郡(岩美町・福部)桐山城主1万石の大名となり、浦富陣屋を館とした。文禄元年死去。
      後を継いだ恒総は関ヶ原で西軍に味方、高野山で自害。親子2代20年間の治世だったが、浦住(冨)の街並はこの時代に整備されたようだ。

      浦富、定善寺入口に「垣屋八幡」があり今でも盆には、近所の婦人達が赤飯を炊いてお祭りする。  ※(「民談記」で宗歓の墓を暴き一族が崇られたのは池田光政の家臣池田政虎のこと)

    3. 松田道之(天保10年(1839)〜明治15年(1832)44歳)
      鵜殿家臣、久保家の次男に生まれ、藩医木下家の養子、後松田市太夫の家を継ぐ。八之進と改め、後正人と称した。松田家は鵜殿の禄350石を食む家柄。  道之は市太夫とともに京都で多くの志士と交わり尊王の大義を唱え。鵜殿を助け、鳥取藩の正義を維持した。藩士に列し、馬廻り200石となる。
       明治政府に召出され、京都府大参事、大津県令。大久保利通内務卿に呼出され内務大書記官、太政官大書記官を兼務、明治12年東京府知事となる。                '  この間、琉球処分、地方争乱の後始末、地租改正など新日本の基礎確立発展に功績があった。
      東京府知事転任直後、日本橋で出火、近来希な大惨事となった。今日の東京の街並・区画はこのときから始まり、後、我が国最初の火災保険会社が鳥取藩士  ら5人を中心に出来た。明治15年府知事現職のまま死去。
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    5. 深田廉蔵(明治21年(1888)〜昭和45年(1970) 82歳)
      大正3年外交官試験合格、外務省に勤務。ニューヨーク総領事。外交次官、戦後初代国連大使、外務省顧問、日韓会談首席代表、昭和38年退官。
      鳥取県政顧問、東京県人会会長し美喜夫人はエリザベス・サンダースホームを設立。兄節蔵(外交官)、弟退蔵(実業家)とともに深田3兄弟と呼ばれた。
  • 3.小畑3号墳
    ……家型石棺(町保護文化財平成15年9月26日指定)
    平成12〜13年、9号線改築工事(馴馳山バイパス)に伴い、5基の古墳が発掘調査された。
    3号墳は多角形墳の可能性があるが、調査された古墳は全て20m級の方墳であるあることが確認。特に3号墳は、27mと大型で、横穴式石室、中高式天井で、石材は 大きなものは31トンもあり「因幡の石舞台」とも言える。「松脂岩」を含む凝灰角篠岩で、駆馳山産出のものである。
    石室は全長12.2m、盗掘により家型石棺も破砕、散乱していたが、土器類、ガラス球、鉄鏃、金メッキされた馬具類など副葬品が多数見つかった。
    このことから3号墳の被葬者は地域を統括する首長クラスと考えられる。

    出土土器の年代から6世紀末〜7世紀前半に築造されたと推定される。石棺はバラバラになったものを復元したもの。底板3枚、短側石2枚、長側石1枚、 蓋石2枚の組み合わせ式家型石棺。
    底石上面……石材をうまく組み合わせるために、短・長側石の幅に合わせた溝を切削。
    縄掛突起は長側石側に8個存在。(畿内の石棺の多くは短側石側に突起を付ける)   

    3〜7号墳すべてから馬具類、武具、鉄剣、装身具類が出土。棺金具、釘等から木棺の存在が確認。
    3〜5号墳は床面にベンガラがまかれていた。
         ※5号墳は布勢運動公園(コカコーラウェスト運動公園)に移築
         ※現在、県内では14基の家型石棺が出土、その内8基は岩美町(小田川水系)で出土。


    ◇穴観音(小畑1号墳)

    7世紀築造、直径19mの円墳。横穴式石室をもつ。18世紀の大谷の沢の大規模な干拓工事の安全を願って、33袋の観音像を安置。(現在は安全のため移動)




    ◇駟馳山峠の石畳道

    江戸時代。砺馳山峠は赤土の急な坂道で雨が降ると泥んこになり旅人は大変な難儀した。 この峠の有様をみた、備前邑久郡上山田村の六部多十郎は近郷近在に寄付を求め木谷の庄屋の協力を得て石畳道を完成した。
    多十郎は、その2年後、1813年大谷で安らか往生を遂げた。「六部の石畳道」と語り継ぐ。 旧道に墓。
     
    4. 新井三嶋谷墳丘墓(1号墳丘墓、2号墳丘墓)(県史跡平成23年11月25日指定)
    岩美南小学校建設に伴う発掘調査で明らかになった弥生後期(約2000年前)の大型墳丘墓。
      
    1. 1号墳丘墓
      東西24m、南北18m、高さ3m、法面に貼り石をもつ方形貼石墳丘墓……この時期全国最大級
      墓壙〔ボコウ〕を三箇所発見、第一被葬者の墓壙は大型(5.6m×5.3m)で2体が同時に埋葬されたと見られ、墓壙の上で割れた土器等が見つかっている。(山陰特有の葬送の最古の例) 埋葬者は少なくとも4人。
      丹後地方の貼り石方形墳丘墓との共通点………墳丘が高い、墓壙が大きい
           弥生時代の因幡地方を考える上で、貴重な墳丘墓。
           山陰特有の四隅突出型の墳丘墓の定説を覆す規模として注目された。

    2. 2号墳丘墓
      推定11mの方形墓で、組み合わせ式木棺2基が見つかる。
      墳丘墓は、木棺の内部を未調査のまま残し。墳丘全体を土で覆い、石を貼り付け、発掘当時に近い形で復元。
      墳丘裾部には、約12万年前の海岸線を示す穿孔具(ニオガイ)の痕跡が残る。

      当時の地形は……入り江、あるいはラグーン。海上交通。蒲生川の流路。
      新井地区の弥生遺跡……銅鐸の出土(現在京都国立博物館所蔵)、神戸桜ヶ丘、加茂岩倉と同苑
                 新井橋下や太田の石包丁・石斧。等
      稲作を中心とした大集落、巨大墳丘墓の文化を持つ一大勢力の存在
            (四隅突出型墳丘墓……中国山地から山陰へ。やがて北陸地域へ。再び山陰へ。)
      白い貼り石の墓を見上げた集落はどこにあったのか、浦富の湾に入ってきた船の人たちには、巨大な貼り石の丘の姿はどのようにみえただろうか?
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