武田高信
(その1)

武田 高信(たけだ たかのぶ、享禄2年(1529年)? - 天正元年(1573年)5月以前)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての因幡国の武将。

略歴
因幡武田氏は清和源氏の一家系、河内源氏の庶流 甲斐源氏の流れであり、若狭国の守護大名を務めた若狭武田氏のさらに庶流とされ、因幡山名氏のもとにあって客将として優遇されていた。

高信の父・武田国信は、守護・山名誠通の時に自ら申し出て鳥取城番となった。 一国一城の主への野心を秘める国信は鳥取城の大改築を行う。
父のあとを継いだ高信は鵯尾城(鳥取市玉津)にあったが、因幡山名氏への叛意を露わにし鳥取城の奪取に成功する。
その後、安芸国の毛利氏と結び、永禄6年(1563年)に鹿野城にいた山名豊成(旧守護・山名誠通の子)を毒殺し、次いで湯所口の戦いで山名氏の重臣・中村豊重を敗死させる。さらに守護館・ 布勢天神山城を攻撃して因幡守護・山名豊数を鹿野城に逐い、同じ山名一族の山名豊弘を擁立して因幡国での優位を決定的にする。
因幡国を実質的に支配した高信は、毛利氏に従って但馬国・美作国に転戦するが、有力国人層の掌握に苦しみ、さらに因幡への進出を図る美作国の草刈氏や尼子勝久・山中幸盛ら尼子党の 出没に悩まされるようになる。

元亀2年(1571年)、山名氏に属していた但馬国芦屋城の塩冶高清を攻めて大敗、嫡男・又太郎と次男・与十郎を失った(芦屋城の戦い)。
元亀3年(1572年)には小早川隆景の要請に応じて美作国入りして浦上宗景・宇喜多直家などの所領に圧力をかけ、備芸和平の締結後もしばらく着陣していたが同年中には因幡へ退いた。

天正元年(1573年)8月1日、因幡の国人衆の多くと誼を通じて甑山城に進出した山中幸盛率いる尼子党と戦ったが決定的な敗北を喫して(鳥取のたのも崩れ(田の実崩れ))、 ついに居城・鳥取城を山名豊国に明け渡すこととなった(尼子再興軍による鳥取城の戦い)。

鳥取城を明け渡した高信は鵯尾城に退いたが、その後、山名豊国および但馬山名氏が尼子氏から離れ毛利氏と和議を結んだことで、毛利氏の忠実な手兵として因幡国を支配していた高信は微妙な立場に追い込まれた。
天正3年(1575年)3月7日以前頃、豊国によって鵯尾城を追われ但馬国に逃れた高信は、かつて攻撃した芦屋城の塩冶高清を頼り、高清を通じて毛利氏に助命を願った。
因幡国内で山名豊国の勢力が伸張する中で、但馬国の山名祐豊も高信の排除を吉川元春に求める。 同年8月28日には息子・武田徳充丸への家督相続が毛利氏から認められ、高信の復権への道は事実上閉ざされた。同年9月25日頃、高信は小早川隆景のもとに家臣2名を送り再度の助命嘆願を行うが、隆景は高信の身の安全について言葉を濁している。高信は毛利氏から見捨てられたのである。

天正4年(1576年)5月4日、高信は不慮の死を遂げる。5月18日付の吉川元春の書状では「武田高信は織田方への内通歴然につき、山名豊国によって切腹させられた」と伝えられているが、その死には諸説ある。

近年の研究によれば、高信の死は天正4年よりもさらに早いことが判明している。天正元年(1573年)5月4日付「小早川隆景書状写」 (『萩藩閥閲録』)には高信について「不慮に相果て」と記されている。そうなると前記天正3年(1575年)3月頃の山名豊国による 鵯尾城追放以後の高信の足取りと天正4年(1576年)5月18日付けの吉川元春による高信の死亡情報に矛盾と混乱が生じる。しかし、天正元年5月4日 付けの「小早川隆景書状写」以降に高信から発せられた書状は確認されていないことからも、天正元年の春頃に高信が急死した可能性が高いといえよう。 鳥取県鳥取市河原町佐貫にある大義寺の境内には、武田高信の墓と伝えられている五輪塔がある。


高信の死に関して
謎の多い死
高信の死を「不慮に相果て」と報じた天正元年5月4日付けの小早川隆景書状では、なぜ高信が急死したのかについては触れられていない。
時系列的に見ても「小早川隆景による高信の死亡情報(1573年5月)−「鳥取のたのも崩れ」で尼子氏に敗れ鳥取城を失う(1573年8月) −鵯尾城追放(1575年3月以前)−塩冶高清による助命嘆願と小早川隆景への助命嘆願(1575年9月以前)吉川元春書状での死亡の記述 (1576年5月)(赤字は一次史料によるほぼ確実な史実)」という流れに矛盾と混乱が生じる。
前記5月18日付の吉川元春書状に記された、武田高信の織田氏への内通も文面通りに受け取ることはできない。高信の死に先立つ天正3年11月頃に、 毛利氏と但馬山名氏との和議は実質的には破棄されており、但馬山名氏は織田氏への接近をうかがわせていた。
因幡の山名豊国も総領家・ 但馬山名氏に追随して織田氏に心を寄せていたと見られる。そのような状況下では高信が織田方に通じても、高信の再起にとっては何らの メリットもない。書状に伝えられるとおり、失地回復をねらって織田氏と結んだ高信が豊国に処断されたのか、それとも高信の叛意を警戒した 豊国が織田氏への内通にかこつけて高信を抹殺したのか、高信の死の真相は謎に包まれている。
天正元年以後の武田高信の消息については史料においても矛盾や不明な点が多く、天下統一期における因幡国の状況を解明するためにも、 今後の詳細な研究が待たれる。

因幡民談記の伝える高信の死
『因幡民談記』が伝える武田高信の失脚と死は次の通りであり、従来はこれが通説とされてきた。
鳥取城を守護・山名豊国に明け渡した高信は鵯尾城に退いていたが、高信の叛意を警戒した山名豊国は天正6年(1578年)に、美作の草刈氏を討つと称して高信を佐貫の大義寺におびき寄せ、 斬殺したと伝えられている。
因幡民談記によると、高信の死は天正6年8月17日(1578年9月18日)という。

(参考 ウィキペディア)
 

武田高信

(その2)

鵯尾城の城主は、武田又五郎高信である。高信の父は国信で、元は因幡守護山名氏の家臣で、若狭武田氏の傍流とされる。ちなみに、この父・武田国信と同姓同名の武田国信がいる。二人とも若狭武田氏で 、非常に紛らわしいが、この武将は若狭武田氏本流で第3代当主である。こちらが活躍していたのは、永享10年(1438)から延徳2年(1490)であるか、ら室町期から戦国初期までである。

さて、高信の父・国信が若狭から因幡に来た時期ははっきりしないが、但馬山名氏と対立を深めた山名誠通(のぶみち)のとき家臣となった。誠通は、但馬山名氏(但馬守護)である祐豊側からの侵入を防ぐ べく、因幡の所々に砦を造った。そのうちの一つが後に鳥取城となる久松山の砦である。これと相前後して、誠通は天正13年(1544)頃に、出雲の尼子晴久より偏諱を受け、「久通」と改名している。

但馬山名氏の攻撃を単独で防ぎきる戦力がなかったこともあるが、この頃の尼子氏は、美作の高田城を攻め、また伯耆国汗入郡などにも進出していることもあって、因幡へかなりの圧力をかけてい たことが知られる(天文12年(1544)、尼子晴久が鳥取山下(城下)を攻めた、とする記録が見える)。

誠通は天文14年(1545)ごろ鳥取城を築城したといわれている。前記したように但馬山名氏(祐豊)の備えとして、特にこの砦には意を用いた。当初、当城の城番は交代制で行うこととしたが、 次第に他の長臣たちはこの城の城番に退屈し、武田高信が定番するようになったという。

高信と父国信が主君であった因幡守護山名誠通に対し、叛意(はんい)をいつの時点から持ち始めたかはっきりしないが、具体的にはこの鳥取城の定番となったことがきっかけと思われる。 父国信が亡くなった後、高信はさらに露骨な動きを見せた。

天文17年(1548)、但馬の山名祐豊は因幡へ奇襲作戦をかけた。この戦いで誠通は討死した(天文15年という異説もある)といわれ、その後豊定が天神山城(鳥取県鳥取市湖山町南)を継いだが、まもなく亡くなった。
 この後、因幡・但馬の両山名氏の抗争がさらに拍車をかけていくが、山名氏そのものの勢威は次第に低下、その流れを高信は見ていたのだろう、鳥取久松山の砦をさらに要害堅固にし、 地元国人領主に対し、布施天神山城を攻め落とすことを要請した。

武田氏の没落
その後因幡山名氏を布施天神山城から追い落とした武田氏ではあったが、永禄12年(1569)但馬の芦屋城(兵庫県新美方郡温泉町浜坂)の戦いにおいて、この弟又三郎は討死した。
天正元年(1573)高信は、甑山城において山中鹿助と戦い(「たのも崩れ」)破れ、鵯尾城に奔った。3年後の天正4年になると、山名豊国によって攻められ、最期は説明板にもあるように、 同年豊国の陣所であった河原の大義寺において謀殺された。
 
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