仁風閣

「仁風閣」は鳥取城跡に建てられた、国の重要文化財の洋風建築で、明治40年5月10日竣工(1907)。


誰が、何のために建築したのか。



当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として、鳥取城跡の扇御殿跡に鳥取池田家の14代当主 池田仲博(いけだなかひろ)侯爵が別邸として建てられた。
 
池田仲博侯爵は、徳川慶喜(徳川家最後の15代将軍)の5男として生まれた。

旧因幡国鳥取藩主の13代当主であった池田輝知が30歳という若さで死去したで、輝知の次女(亨子)の婿養子として鳥取池田家の14代当主となる。
旧因幡国鳥取藩主の12代当主(最後) 池田慶徳(いけだ よしのり)は徳川慶喜と兄弟で慶喜の兄(水戸藩主 斉昭の子)。
 
費用は、誰が設計したのか。
明治39年9月に着工して僅か8か月で完成した。
宿泊施設は本来ならば鳥取市が準備すべきだが資金がないので「鳥取池田家の第14代当主池田仲博侯爵」にお願いした。
池田仲博は、鳥取城跡の扇御殿跡に自身の別邸として宿泊施設を建てた。
建築費は43,335円。当時、市役所の年間予算は50,000円であった。

設計は、宮内省匠頭であった 片山東熊(かたやまとうくま)に池田家の別邸として設計を依頼し、工部大学校で片山博士の後輩にあたる鳥取市出身の橋本平蔵(はしもとへいぞう)が監督。
片山博士は、 明治洋風建築最高の傑作である赤坂離宮をはじめ、奈良国立博物館や京都国立博物館など、数多くの有名建築を設計し、当時の宮廷建築の第一人者と云われた人です。

仁風閣の名付け親は

「仁風閣」の命名は、この行啓に随行した元帥海軍大将東郷平八郎が命したもの。今もその直筆が二階ホールに掲げられている。元帥の随行は皇太子が直々に随行を願った。

  
それまでは、鳥取城跡の扇御殿跡に自身の別邸を建てたので「扇御殿」と呼ばれていた。





「宝隆院庭園」は



二階のベランダから眼下に見える庭園は、宝隆院庭園と云って12代藩主(池田慶徳)が、若くして未亡人となった11代藩主(池田慶栄)の夫人、宝隆院のために造営したもの。

庭園の西南隅には茶座敷「宝扇庵」が設けられ、これらを含めて池のまわりを回遊することができる。
 

らせん階段

宝扇庵

堀端から仁風閣
 
仁風閣パンフレット
 
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