●とっとりは「取鳥」?それとも「鳥取」?

その昔、鳥取市のシンボル久松山(きゅうしょうざん)山麓一帯は因幡(いなば)国邑美(おうみ)郡鳥取(ととり)郷と呼ばれていました。
戦国時代、その久松山に城ができ鳥取城と呼ばれ、城下が鳥取藩となりました。そして廃藩置県により鳥取藩が鳥取県となつて現在に至っている。

さて、そもそもの「鳥取」とは何なのかということですが、大和朝廷に直属していたといわれる職業集団の一つ、白鳥を捕獲して朝廷に献上する 人たち「鳥取部(ととりべ)」に由来しています。鳥取部は全国数か所に見られましたが、それが県名、市名の大地名として現在に残っているのは 鳥取だけ、ということです。

ちょっと年輩のかたなら「鉄砲かついで鳥取県」なんて言いませんでしたか?、私も親から「山があっても山梨県」「滑って転んで大分県」なんて 聞いた記憶があります。でもこの言葉遊びにも、鳥取県にはちゃんと地名の由来が隠されていたのです。“鳥を取る”鳥取県と。
                 
(第1号(2000.07.11)「とっとり豆知識」より)

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「鳥取」?それとも「取鳥」?
由来を知れば、もう書きまちがえない!?

  「とっとり」という地名。漢字で書くときに「鳥取」か「取鳥」で悩んだことはないだろうか? もっとも、鳥取県民ほまちがえないと思うが、やはり他県民に話を聞くと「うっ かりまちがえる」という人も少なからずいる。
 確かに、「鳥」と「取」、そのどちらも「とり」と読めるのが混乱の原因かもしれない。この混乱を解消するには、地名の由来までさかのぼって考えればいい。そうすれば、まち がえることなく覚えられる。

 そもそも「鳥取」という地名は、平安時代中期の辞書『和名類聚抄』では「因幡国邑美郡鳥取郷」として記載され、現在、鳥取市内にある久松山のふもと一帯を指す地名だった。
 戦国時代あたりから、久松山につくられた城の名前や、その城下町の名前として「鳥取」が使われるようになった。

 では、この「鳥取」とは何か? その由来をひもとくと、記紀神話にいきあたる。
 『日本書紀』によると、第11代垂仁天皇の皇子・誉津別皇子(ほむつべのみこ)は成人し、あごひげが胸まで垂れかかるような年齢になってもしゃべることがなく、赤子のように泣いて ばかりであった。しかし、あるとき空を飛ぶ鵠(白鳥)を見て、生まれてはじめて「あれはなんだ?」としゃべった。
これを喜んだ天皇が「だれか、あの鵠(くぐい)を捕まえて献上せよ」と命じると、天湯河板挙(あまのゆかわたな)という者が「私か必ず捕えてまいります」と約束し、出雲(あるいは但馬) でようやく鵠を捕らえ、天皇に献上した。

 誉津別皇子は献上された鵠と友達のように遊ぶうち、ついに言葉をしゃべることができるようになったという。
 この功績により、天湯河板挙は「鳥取造」(ととりのみやつこ)の姓を賜り、鳥取氏の祖となり、さらに鳥を捕える職「鳥取部」(ととりべ)が定められた、という説話かある。

 もっともこの話、「古事記」では最後が少しちがっており、鵠(くぐい)を手に入れても誉津別皇子はしゃべることができず、その後、天皇の夢枕に何者かが現われ、皇子が言葉を話せな いのは出雲大神様の崇りだということがわかる。
そこで、皇子を出雲に遣わし、出雲大神を拝むと、しゃべることできるようになった。そうして、皇子が話せるようになったこと を天皇が喜び、鳥取部、鳥甘部(とりかひべ)(鳥飼部)などを設置した、となっている。
 鳥取の地名のルーツは、鳥取部、鳥飼部が住んでいたからではないか、と考えられる。それではなぜ、鳥を捕まえる人たちがこの辺りに住んだのか? それは久松山ふもとの地形が関係しているといえる。
 現在、鳥取県庁のある辺りから千代川までの市街地は、もともと袋川が蛇行して流れる広い沼沢地であった。袋川の「袋」という名称も、これは川が蛇行してできた袋状の低湿地を指す言葉である。 もちろん、沼沢地であれば、エサを求めてたくさんの水鳥が生息したわけで、鳥取部がこの辺りに住んでいたというのも納得できる話だ。

 その後、江戸時代には因幡、伯香を治める池田家の藩庁が鳥取の町に置かれ、「鳥取藩」という呼び方が一般的となった。そして、明治の廃藩置県で因幡、伯者がひとまとまりに なり、旧藩名がそのまま県名である「鳥取県」となった。                  
( 「鳥取地理・地名・地図の謎」  実業之日本社より)
 
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