「破戒の主人公」
実在のモデル、 鳥取で教べん

被差別部落出身の教師を描いた島崎藤村の小説『破戒』の主人公・瀬川丑松には、大江磯吉(おおえ・いそきち)という実在のモデルがいて、その大江は鳥取県で先駆的教育を実践していた。 このことを知っている人は、あまりいないのではないか。

 その人は大江磯吉 

先日、倉吉市で開催された第二十四回部落解放鳥取県研究集会で、兵庫県立柏原(かいばら)高校教諭、荒木謙氏が「『破戒』のモデル 大江礒吉(磯吉のこと)の生涯」と題して講演した。
大江磯吉は、明治元年(1868)、長野県の被差別部落に生まれた。高等師範学校(現筑波大学)をトップで卒業した超エリートだったが、小説のように、その出身ゆえに故郷で教職を追われ、 大阪府、鳥取県へ転じて、最後は兵庫県の柏原中学校(現柏原高校)の校長を務め、三十四歳の若さで病死している。

鳥取時代の大江について、実は、郷土の優れた教育史研究家である篠村昭二氏が、自著の『鳥取教育百年史余話』(昭和五十一年発行)『雪の砂丘-風土と教育』(昭和五十八年発行)などで 早くから紹介しており、知っている人は多いかもしれない。
大江は明治二十八年四月、鳥取県尋常師範学校(現鳥取大学教育学部)教諭として着任。師範学校の寮長と付属小学校の校長を兼務して、明治三十三年まで約六年間、鳥取城のお堀端の士族屋敷に住んだ。 教育学や心理学を教え、鳥取の教育の近代化に大きな影響を与えた。

  鳥取生活は六年 

鳥取に引っ張ったのは、同じ長野県出身で長野尋常師範学校の先輩でもある鳥取県尋常師範学校の校長、小早川潔であった。
近代教育学に精通し、高い見識と豊富な実績のある大江を、小早川は高く評価していた。三顧の礼で迎え、給与は教諭の最高額を支給した。大江はよく期待にこたえた。 縦横無尽に活躍する姿に、その出身を問題にするような者はいなかった。
鳥取での教員生活は、大江の生涯の中では一番長く、もっとも満ち足りた期間であったようだ。「生徒や同僚をしばしば自分の家に誘い、妻の料理を楽しみ、酒をくみかわした」(荒木氏)という。 同僚として、親友として教育への情熱を高めあった境港出身の都田忠次郎(元旧制倉吉中学校長)との出会いにも恵まれた。
大江は、長野県の中学生のころ、青谷町出身で、のちに“日本一の武信和英大辞典”をつくった武信由太郎(元早稲田大学教授)に英語を教わっている。武信は教科書や参考書、辞書な どを貸し与え、大江の勉学を援助した。このことも彼の人生に大きな希望と勇気を与えただろう。

 己の正義を貫く

鳥取在職六年目の春、あ事件が起きた。新校長が着任し、学校改革や教育方革をめぐって確執が生じ、全面対決となったようだ。
当時は日清戦争の勝利に国中が酔っていたころ。世情ぼ軍国主義教育を強め、大江の自由主義教育の転換を迫るものであった、と推測されている。 しかし、大江は権威や権力にこびへつらうことをせず、己の信念を貫いた。
ついに大江と都田ら計五人の教員に「休職命令」(免職)が発せられた。この騒動で大江は鳥取を去ったが、その後の柏原中学校でも鳥取で試みた自由主義教育を進め、個性尊重の校風づくりに励む。
講演した荒木氏は「大江は、いわれなき差別と闘いながら、先駆的な教育者として見事な生涯を生き抜いた」と話し、聴衆の感動を呼んでいた。

 鳥取で強く生きた

小説の主人公はアメリカに渡ったが、実在のモデルは長野を追われ、大阪を追われて鳥取に来た。鳥取では生徒や同僚に恵まれ、力強く生きていた。なにぶん 九十年も前のことでよく分からない点も多いが、研究家らは、大江の人生は鳥取で大きく花開いた、とみている。
大正の時代は、封建的身分差別が存在し、部落差別に対する組織的な解放運動はまだなかった。そんな困難な時代にあっても、大江の実力をあるがままに正当に評価し、親しく交わり支 援した人たちはいた。いつの世にも、未来を開く人々は必ずいるものなのだ。
その中に鳥取県人が多くいたことは、大きな喜びであり、誇りである。大江と鳥取県の関係を知ると、今 に生きるわれわれにも、希望と勇気がふつふつとわいてくる。

(西部本社鳥取発特報部    佐伯健二記者)
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