母面影追い名馬に
(宇治川先陣争いの「生月」)

駟馳山峠から岩美町側に下った国道178号 沿いに生誕地を示す標識
現在の鳥取市と岩美町の境にある駟馳山しちやま峠は、旅人が越える際に昔は大変な難儀をしたものです。
雨が降り続いて道がぬかるむと、滑って転び、大けがをする人が少なくありませんでした。
峠の西の細川という村には養老年間(717〜724年)から馬駅が置かれました。沢山の馬が飼育され、但馬との間を往復する旅人を乗せたり、荷物運びをしたりしてました。

駟馳山(314b)の山頂近くにある「駒が池」の周辺は、一日中日当たりがよく、牧草も豊富だったので、放牧に良い環境だったでしょう。そこで育った馬の中に 、ある日突然「生月」いけづきという名馬が誕生しました。
ほかの馬に比べて大変賢く、何を教えてもすぐに覚えてしまいました。けれど、母馬は産後の肥立ちが悪く、生月の成長を見ることなく亡くなってしまいました。
生月は水に映った自分の姿をお母さんだと思って水の中に飛び込んだり、母を捜して険しい崖をよじ登ったり、駆け下ったりもしました。
まれにみる名馬に成長した生月を村人たちは寵愛しました。
1184(寿永3)年の歴史に名高い宇治川の合戦で、佐々木高綱と梶原景季が先陣争いを繰り広げ、高綱の乗った馬が宇治川の激流を見事に乗り切り 一番乗りを果たしました。その馬こそ生月だったのです。

後年高綱は雲州・伯耆の守護職として任地に向かう途中、駟馳山峠を越えた際、生月の生まれ育った駟馳山を仰いで馬から下り、手を合わせて亡き 生月の冥福を祈ったと伝えられています。


生月の生誕地伝承が残る駟馳山
私は駟馳山峠を越えるたびに多くの仲間と楽しい日々を送りながらたくましく成長した生月を追憶するのです。
     
(朝日新聞から  元鳥取砂丘保安官事務所長 田中寅夫 )
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