武将の思い河童地蔵
(丸山城哀歌)

鳥取城址(鳥取市)がある久松山の北西におわんをかぶせたような孤立した山があります。標高85bの丸山で、かって鳥取城の出城がありました。

羽柴秀吉のの鳥取城攻めの際、但馬国奈佐谷の領主だった奈佐日本助を守将として500人余りが屯営しました。日本助は鳥取城と縁はありませんでしたが、秀吉の 田島征伐で国を追われて海賊となっていました。
秀吉が鳥取城を攻めるというので、軍船二隻と50人余りの精鋭とともに鳥取城主、吉川経家に加勢したのです。

1581(天正9)年、秀吉の大軍は鳥取城を完全に包囲しました。城内の食料が尽きようとしていた9月、秀吉方の宮部継潤の軍勢が雁金山城近くの峠に突如夜襲をかけました。 雁金山城は一夜で落城し、城将の塩治高清は丸山城に逃れました。
 

鳥取城址(天守閣跡)から
雁金山城址(手前)と丸山城址
そのため、丸山城から鳥取城への連絡が絶たれ、食料の輸送も途絶しました。
10月に入ると鳥取城は飢餓地獄となり、餓死者が続出。
そんな折、秀吉の弟、秀長が丸山城に使者を送り 、降伏を勧めましたが、日本助は毅然としてこう答えました。「この城を渡すわけにはいかぬ。おぬしの首を切って私の返事としよう」。秀長か挑発に乗ることを期待しましたが、 秀長の軍は何の動きも見せませんでした。
10月25日、城兵の助命を条件に吉川経家は山腹の真教寺で自刀して果てました。
日本助と高清も丸山のふもとで自害しました。日本助は八幡大菩薩の旗をひらめかして日本海で活躍していたころを思い出したのではないでしょうか。人々は海から上がって陸の上で 果てた彼の墓を河童地蔵と呼び、ねんごろに供養しました。      
(朝日新聞から  元鳥取砂丘保安官事務所長 田中寅夫 )
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