「赤とんぼの母」 (角秋勝治) |
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夕焼け小焼けの赤とんぼ/負われて見たのはいつの日か 三木露風作詞・山田耕作作曲の「赤とんぼ」は、郷愁を誘う国民的愛唱歌である。 露風のの母は、鳥取市出身の「かた」。その人生は、人権と平和を求める運動に貫かれている。特に大正から昭和初期は、激しい「婦人参政権運動」を展開した近代女性であった。 |
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愛児と別れて自立 明治維新直後の1872年、元鳥取藩家老・和田邦之助の娘に生まれ、重臣・堀正の養女として東郷池畔の松崎で育った。 16歳で竜野の三木家に嫁ぎ、のちの詩人・露風と勉を生むが、夫の放蕩で幼い愛児と別れなければならなかった。 自立するために、東京帝大附属病院の看護婦になった。勤務の傍ら、自らの経験で「弱い人、哀しい人」の側に立ち、「足尾鉱毒事件」の救済活動や、「廃娼運動」に参加。電力会社には40回通って 街灯を設置させ、青少年の空気銃禁止も訴えた。 さして1902年、米子育ちの新聞記者・碧川企救男と再婚し、北海道の小樽に亘る。 参政権運動に奔走 企救男はペン1本で闘う反軍反権力者。東京に職を得て上京すると、いつも官憲の影があった。19年、夫は第一次世界大戦の「ベルサイユ講和条約」の取材で海を渡り、ヨーロッパの女性運動を伝えてくれた。 「これだ」と、妻の心に火が点いた。 女が一方的に離縁され、娘が売買され、社会に発言できないのは、なんの権利も与えられていないからだ。 かたは48歳で社会問題研究会を立ち上げ、国会議員食堂での禁酒を実現。23年に「婦人参政同盟」、27年には「女性社」を結成し、雨の日も風の日も国会請願に出かけた。野外演説会では、官憲に 妨害されても屈することなく運動を続けた。 最後まで社会活動 機関紙『女権』で、「鐘は既に鳴れり猶ほ目覚めざるか」と女性の奮起を促す。企救男や露風も協力して、男女共同参画の先駆けとなった。しかし時代は軍国主義で、社会運動は禁止され、婦人参政権が 実現するのはアジア太平洋戦争の敗戦後である。 かたは、52年、「婦選会館」設立のため市川房江に三千円寄付した。80歳になっても狂犬病撲滅、戦争反対の粘り強い運動を続けた。日米安保に反対して、遺言は「アンポヘ行ったか」である。 62年、90歳で永眠。 杉並区の西本願寺和田堀廟所に、露風筆「赤とんぼの母 此処にに眠る」の碑が建つ。松崎にある和田家の菩提寺、西向寺に分骨された。 顕彰の碑を建立へ これほどの業績が、しかし知られていない。残念に思った私は、15年間かけて『鐘は既に鳴れりー碧川かたとその時代』上下二巻を著した。幸い全国各地の反響を呼び、地元でも「碧川かた顕彰会」 が結成され、記念碑建立の募金運動が始まった。 記念碑は今春、生誕地近くに実現する予定である。かたが実践した女性の自立、男女共同参画、人生後半の生き方ーは。現代の課題でもあり、「現在進行形」なのだ。かたはなお生き、未来を見詰めている。 顕彰碑建立の意義はそこにある。 (文筆家・鳥取市) |
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「鐘は既に鳴れり」 の言葉が正面に刻んであり、柴山抱海さん揮毫 (わらべ館隣の緑地園) |
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