文政12年(1829)晩秋、冷たいしぐれが降り続ける夕方、青年医師を供にした駕冠が鳥取城下へ帰りを急いだ、道がぬかるみ、駕冠が左右に揺れて、中の少年が二人の 駕冠かきを大声で叱った。 子どもは、まだ前髪の取れていない幼い少年であった。たまりかねた医師は、お許しを願ったが少年は承知しなかった。 「この水たまりではどんな優秀な駕龍かきでも、うまく進めない。それ程、おいやだつたら、傘がありますので歩かれたらどうか」とたしなめると少年は、「よし歩い て行こう、後で父上に言いつけてやる」と言い放ち、ぬかるみ道をどんどん駈けて行った。 第9代鳥取藩主斉訓10歳、御殿医玄貞27歳の出来事であった。 自宅に帰った医師は、自らの処置に恥ずることはなかった。当時の慣習としてこのような場合、自らの去就を表明することはできず主家の命令を待つしかなかった。 玄 貞は御殿医と同時に藩主の子どもの教育係を兼ねていた。 医師の名前は、中本達蔵といい、医名を中本玄貞と言った。 佐治村福園村の出身で少年の頃より鳥取に出て藩医中本柳朴に医術を学び医術の成績も良く、人柄もよしとあって中本姓を与えられ、家老家の侍医となっていた。 さて、藩主 その後、藩主となった斉訓は、参勤交代で用瀬を通過する時には必ず玄貞に使いを差し向け近況を案じて帰ったという。 斉訓は学問に励み仁政をめざしたが、惜しくも22歳の若さで生涯を終えた。 遠き日の若者と少年の不幸な交わりであったが、その後の二人の人生は天晴れであった。 玄貞の墓は佐治町高山林泉寺にあり鳥取城を見守る。 又、中本家の子孫男子は代々名前の一字に「誠」の字を用いた。斉訓の幼名「誠之進」にあやかったものではないか。君臣の深い絆を感じる。 |
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