三方とも水要害の地
(防己尾城址)

防己尾城址
天然の池としては日本一とされる湖山池の西側、半島状に突き出した小丘に防己尾城址があります。山容が鼓に 似ているので、なまって「つづら」と名づけられたという説があります。

城主は土地の豪族だった吉岡春斎の嫡男、吉岡将監定勝。もともとは吉岡温泉にほど近い場所に丸山城を構えてましたが、戦雲急を告げ始めた天正年間 それよりもはるかに高い箕上山に城を移しました。しかし、あまりにも高くて武器や食料の輸送が困難だったため5、6年で放棄。防己尾に築城しました。
 そのころ、毛利勢力だった鳥取城は、織田信長の命を受けた羽柴秀吉に攻められ天正9(1581)年、完全に包囲されていました。毛利方だった定勝は 秀吉軍に対し、たびたび夜襲をかけて火をはなったり食料を奪ったり、ゲリラ作戦を続けていました。

立腹した秀吉は、水軍の将、多賀文蔵に千成ひょうたんの馬印を授け同年7月、池のかすみを利用して青島の東側に集結させ一気に防己尾城を攻略しよう としました。しかし、定勝は作戦を見抜いていました。防己尾は標高38㍍。三方が池に囲まれ、西南には堀切の空堀を作るなど攻めにくい要害の城でした。

 不気味なほどの静けさの中、文蔵率いる水軍は本丸への傾斜をはい上かって進み、やがて本丸を取り囲んでいる屛に手が届いた瞬間、突如ときの声ととも に屏を支えていた太いロープが次々と切断。屏の中に仕込まれていた土砂や灰が水軍の頭上に降り注ぎ、吉岡軍の鉄砲が一斉に火をふきました。

 激戦の中で定勝の弟右近が千成ひょうたんの馬印を奪い、文蔵をはじめ多くの兵士が討ち死にしました。定勝は文蔵を含めた犠牲者を弔い、手厚く供養し たといいます。
 堅固だった防己尾城もその後、因幡鹿野城主、亀井茲矩(新十郎)の兵糧攻めで落城しましたが、吉岡軍の武勇はいまもなお語り伝えられています。  
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 (朝日新聞から  元鳥取砂丘保安官事務所長 田中寅夫 )
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