鳥取城跡と太閤ヶ平
(秀吉の包囲網語る遺構)


  織田信長の中国攻め。その舞台の一つとなった 鳥取城は鳥取市中心部の久松山きゅうしょうざん(標高263bび)にあった。
そこから東へ約1・5`の本陣山(同251b)には、現地指揮官・羽柴秀吉の軍の本陣跡があり、戦国の世に思いをはせることができる。

本陣山は秀吉が本陣を置いたことから名付けられた。ふもとの鳥取東照宮から歩いて1時間半ほどで頂上の本陣跡に着く。 空堀と高さ4bの土塁に囲まれた一辺50bにもなる方形の陣跡だ。太閤ヶ平たいこうがなると呼ばれる。

左図は久松山のふもとに吉川経家の銅像が (以下の画像は全てクリック拡大)

 1581(天正9)年、秀吉率いる大軍は鳥取城周辺に延長12キロの包囲網を構築した。「鳥取のかつえ殺し」と呼ばれる兵糧攻めだ。 信長の一代記「信長公記」には、鉄砲で倒した死体に城内の民衆が群がり、取り合いを始めたという記述がある。半年に及ぶ籠城の末、毛利方の城主・吉川経家は城兵らの助命を 条件に降伏し、自刃した。

 太閤ヶ平周辺には多数の陣城跡が残る。陣と陣を複数の空堀で結んだ防衛線の跡は延長700b以上にも及ぶ。鳥取市教委文化財課文化財専門員、佐々木孝文さん(47)は「信長の参陣を 想定した、日本で最大規模の陣城の遺構だ」と話す。

 西へと向かう尾根筋の歩道を進む。久松山の山頂に近づくと削平地(戦国時代の曲輪の跡)が随所に見られる。1時間で着く山頂は鳥取城の山上ノ丸だ。


かつて天守が立っていた天守台へ。ほぼ360度の眺望が楽しめ、北に鳥取砂丘と日本海が見える。山頂から放射状に延びる尾根にも、戦国時代の曲輪が多数残っている。

 ふもとの山下ノ丸には、秀吉の兵糧攻めの後から江戸時代初めにかけて整備された近世城郭の石垣が残されている。佐々木さんは「土の城から石垣の城へと変わる姿が混在している。鳥取城跡は城郭の博物館と 言えます」と話した。   (柳川迅)
 

鳥取東照宮

久松山頂上から鳥取市内

城の石垣
 
バック