ジオパークセンター→火山灰層露頭→砂の美術館→弁天宮(多鯰ヶ池)→ラッキョウ畑→五輪石塔群→弥長神社
→一ツ山離水海食洞→宿院義般顕彰碑 鳥取砂丘東コースと概略説明(パンフレット)の基本コースを順に歩くも、弁天宮(多鯰ヶ池)を過ぎると次へ行くべき道を見つけるのに苦労する。 ラッキョウ畑から最後までたどり着くのに時間がかかった。 このコースだけでなく、全てのモデルルートに案内表示がないのでパンフレットにある移動時間は参考にならなかった。 |
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砂丘の生い立ちを、標本・映像を用いて展示・紹介している。右の画像はセンター前駐車場付近 | |||||
火山灰層露頭 約5万5千年前に大噴火した大山火山の火山灰と、その上下の火山灰質土が壌観察できる。これらの下に見える砂層が古い砂丘(古砂丘) であり、上にある砂層が現在の砂丘(新砂丘)です。 |
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鳥取砂丘の美術館 世界初の砂像展示専門の美術館。毎年テーマを変えて、世界トップレベルの彫刻家による作品を制作展示しています。 (地域関連→広地域→イベント スライドショー参照) |
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多鯰ヶ池(たねがいけ)には長者に仕えていた「お種」が、蛇身に化けて島の 柿をとったという「お種」伝説が伝わっている。池の北岸の大島には、水を司る弁天さまが祭られている。 (お種伝説は、地域関連→鳥取雑学→民話・神話を参照) 中世の頃、砂丘の背後に湯山千軒、多鯰千軒といった大集落があったという伝説が伝わっている。それを証明するかのような大量の 五輪塔が湯山の砂丘地の地下から発見され、ここに集められている。 祭神として神功皇后が祭られている。神功皇后が三韓出兵の帰国の折に、この近くに寄港したと 伝えられています。拝殿まで150段の階段を上る。 かっての海岸線の崖が浸食を受けて できた洞窟。縄文時代前期の海水面が高かった頃にできたと考えられています。その後の海退と砂丘の形成によって陸上に取り残された。 安政6年(1859)から、福部砂丘南の湯山池の干拓が始まりました。 この事業を計画したのが地元在住の宿院義般(しゅくいんぎはん)です。 多鯰ヶ池から水路を掘って水とともに砂を流し、砂丘畑の 灌漑と湯山池の埋め立てを行いました。 |