近江屋安兵衛の大口堰用水について
(とっとり雑学本舗から)
鳥取県の東中西部にはそれぞれ大きな河川があり、そのおかげで鳥取県はどの地域もまんべんなく発展してきたと言えるでしょう。
そのうちの一つ県東部を流れる千代川は岡山県との境に近い智頭町の沖ノ山を源流とする一級河川で、用瀬町や河原町を北流し、最後は鳥取市内 を通り日本海に注がれます。幹線流路の延長は50kmをこえるということで、県内を流れる河川としては西部の日野川に次ぐ長さです。

この千代川の下流に広がる田畑を潤すため、川の左右に大きな農業用水がつくられています。千代川から見て西にあたる左岸につくられた大井 手用水、東にあたる右岸には大口堰用水といい、いずれも県内屈指の大用水路です。いずれも江戸時代の慶長年間(1596〜1615)にできた ようです。

大口堰用水の幹線は山白川とも言いますので、そちらのほうが馴染みがあるかたもいらっしゃるかもしれません。 旧邑美平野一帯を潤す大口堰用水は、農業用水だけでなく、水上交通の役割も果たしていたようです。

大口堰用水により米の増収・安定化が実現しましたが、下流にいくにつれ、水の供給が追いつかない深刻な状況も生まれてきました。鳥取市街地 南部(旧国道29号沿いの吉方面影から大路山周辺)には水が十分にいきわたりませんでした。

吉方村の庄屋で大地主でもあった近江屋安兵衛(おうみややすべえ)は、その実情を藩主に訴えましたが取り合ってもらえず、ついに自分の全財産 を投げ出して水路の掘削工事に着手したのです。

難工事続きで長年の歳月を費やした工事は1720年頃に完成したとされています。後年、鳥取藩主・池田吉泰はその功績をたたえ、安兵衛に何 か望みがないか聞いたところ、安兵衛は「私の仕事が殿様にわかってもらえただけで満足だ。何も望みはないが、財産をはたいてしまって墓を建て るところもない。できることなら、私の造った水路や田んぼが見えるところに墓を建ててほしい。」と答えたそうです。

この願いはかなえられ、旧若桜往来沿いの吉方の田が見渡せるところに墓地を与えられました。現在は、区画整理事業で、少し離れたところに移 転しています。安兵衛夫婦の墓石とともに鳥取市が建てた「救農義人近江屋安兵衛之墓」と刻んだ石柱も建てられています。

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