1.境港防波堤灯台
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大正11年(1922)から8か年かけて実施された境港の修築事業の際に防波堤が新築され、その先端に設置された灯台。
灯台外壁を白色モザイクタイル張りとする塔型で内部は4層に分かれ、梯子で上下する構造となっている。
県内最古の灯台であり、貴重な近代化遺産である。
JR境港駅よりバス徒歩10分 昭和町下車、徒歩30分 |
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2.鳥取藩台場跡 境台場跡 【国指定史跡】
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文久3年(1863)に鳥取藩により築かれた。当時弓ヶ浜一帯を管理していた大庄屋の山根作兵衛らの指揮により、地元の農民が
延べ4万5千人動員された。 砲台の守備には農兵隊が組織された。明治3年(1870)に台場農兵隊廃止とともに台場も使命を終えた。
JR境港駅よりバス徒歩8分 台場公園下車 |
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3.大港神社
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航海安全の神社として、古くから祀られている。戦国時代には尼子氏の祈願所となっていた。 東側には尼子方の武将亀井能登守安綱などを
祀った神社もあつたが、大正4年(1915)に合祀され、現在の神社となっている。
JR境港駅よりバス徒歩5分 |
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4.正福寺
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かつて境村(現境港朝日町)にあった真言宗の寺であったが。天災や戦国期の戦災を受け、江戸時代前期に当地に移され、曹洞宗に改宗された。
この寺には「地獄極楽絵」があり、境港市出身の漫画家水木しげる氏が幼少時にこの絵を見たことにより、妖怪の世界へ興味を抱いた言われている。
境内には水木しげる氏の銅像が設置されている。
JR上道駅より 徒歩5分 |
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5.淀江傘製造技術 【米子市指定無形文化財】
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淀江傘の起こりは文政4年(1821)と言われている。傘を干すための広い砂浜があり、材料の竹が入手しやすいことから、この淀江で盛んに
行われるようになった。大正時代には西日本一帯に出荷された。
現在は淀江傘技術伝承保存会に技術が引き継がれており、インテリア用としての需要も高く、全国に出荷されている。
JR淀江駅より 徒歩10分 |
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6.妻木晩田遺跡 【国指定史跡】
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弥生時代後半から古墳時代に栄えた集落遺跡。その面積は152haにもおよび、国内最大級の規模を誇る。 竪穴住居跡420棟以上、
掘立柱建築跡500棟以上、山陰地方特有の形をした四隅突出型墳丘墓などの墳墓34基や、環濠などが確認されている。
妻木晩田遺跡を見る
JR淀江駅より 車5分 |
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7.上淀廃寺跡 【国指定史跡】
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7世紀末から11世紀初めの寺院跡。発掘調査の結果、金堂跡や塔跡などが確認された。特に金堂跡周辺からは塑像の破片や法隆寺と並ぶ国内最古級の仏教壁画が
多量に発見され、全国的な注目を浴びた。 伽藍配置は西に金堂、東に3棟を南北に並べる。金堂、中塔、南塔の基壇は二重につくられ、瓦積みの周囲に石列が築かれている。
このような方法は三国時代の百済の影響を受けているものと考えられる。
考古学、美術史上、極めて重要な発見がなされた史跡である。
上淀廃寺跡を見る
JR浦安駅より徒歩25分、又は車7分 |
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8.向山古墳群 (国指定史跡)
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小高い丘陵上に前方後円墳、円墳、方墳など14基の古墳があり、山陰屈指の古墳密集地帯。5世紀末から6世紀後半の間に築かれた古墳群で、
この地域一帯で勢力のあった有力者の墓と考えられる。
中でも、向山4号、石馬谷古墳、岩屋古墳は西伯耆地域における代表的な前方後円墳で、この地域の首長墓の系譜をたどることの出来るものである。
また、西馬谷古墳から出土したと伝わる石馬(国指定重要文化財)は本州で唯一の出土であり北九州との交流があったことが考えられる。
石馬は現在、天神垣神社境内にある収蔵庫に収蔵されている。
JR淀江駅より徒歩20分 |
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9.羽倉地蔵 【日吉津村指定有形文化財】
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尼子十勇士の一人である秋上庵介(あきあげいおりのすけ)配下の武将、羽倉孫兵衛元陰の供養塔。
孫兵衛は元亀2年(1571)に吉川元春の家臣福頼元秀が守る米子城を攻略した。その後、毛利方である杉原盛重の勢力下にあった日吉津村に侵攻し、杉原配下の吉田元重の軍勢と
熾烈な乱戦を繰り広げた末、浜辺に逃れたところを打ち取られた。
(左図 クリック拡大)
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10.須山萬(ヨロズ)の墓碑 【日吉津村指定史跡】
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須山は数代に渡る藩政期の医家。 幕末騒乱の折に藩命により京都・江戸に赴き、長州・水戸の志士とと親交を深め、尊王攘夷のために働いた。
元治元年(1864)に幕府により捕らえられ、倒幕の計画に関わった罪で伝馬町の獄に投ぜられた。慶応元年(1865)に斬首の刑に処せられ、24歳という短い生涯を閉じた。
JR伯耆大山駅より 車5分 |
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11.旧日野橋 【国登録有形文化財(建造物)】
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全長 365.8×幅 5.8の大型鉄橋。昭和4年(1929)5月に竣工
曲弦式6連ワーレントラス橋で、両端の半円アーチをえぐ抜いた曲線型の橋門構が特徴であり道路橋、トラス橋として県内最大・最古の物。
これまでに諸々の改修が行われているが、当初の形態をほぼそのまま留めている。
JR伯耆大山駅より 車5分 |
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12.旧米子水源地ポンプ室 【国登録有形文化財(建造物)】
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米子市の上水道は大正十五年(1926)に開通した。 旧ポンプ室は鉄筋コンクリート造、平屋建でこの時に
建てられたもの。 その東側にある記念碑には当時の内閣総理大臣をはじめ水道事業に携わった人々の名が刻まれている。
敷地内には、昭和17年(1942)に建てられた一間社流造の水神社もあり、これらは近代の水道施設を知る上で貴重な文化財である。
JR東山公園駅より徒歩20分 |
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13.木造十一面観音坐像 (滋眼庵) 【県指定重要文化財】
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本尊は像高106.1cm、檜材を用いた寄木造りの像である。目には玉眼を嵌入し顔立に強い印象を与えている。奥行きがあり、結跏趺坐するその姿は
堂々とした存在感をもつ。肉身部の現状は金泥仕上げとなっている。
室町時代初期の作と考えられ、県内では当代の仏像は少なく貴重である。
(見学は事前に連絡のため、画像は借用 左図クリック拡大)
JR東山公園駅より徒歩30分
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14.安養寺(陵墓参考地)
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鎌倉幕府を倒し、建武新政をを成し遂げた後醍醐天皇の皇女・瓊子(たまこ)内親王の廟所と伝わる。
伝説では元弘2年(1332)、幕府により後醍醐天皇が隠岐に流された時に、当時16歳であった皇女は、隠岐に渡ることが許されず、この地で尼になった。
皇女は天皇の京都還幸後も伯耆国にとどまり、24歳で生涯を終えたと伝わる。
寺宝として、後醍醐天皇の肖像画と瓊子内親王の所持品とされる鏡が所蔵されている。
鳥取県米子市福市724 JR米子駅よりバス20分 安養寺入口下車 |
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15.宗像神社 (宗像古墳群)
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「延喜式神名帳」に記載され、伯耆五の宮とも呼ばれる。北側にある宮谷の本宮から尼子晴久により弘治2年(1556)
に今の地に移されたことが古棟札に記されている。藩政期においては、藩主祈願所に定められた。
当神社には吉川元春寄進と伝わる桃形兜1領が所蔵されている。また、裏山には九州地方と形が類似する横穴式石室を持つ宗像古墳群があり、この地域が古くから九州と関わりが深かったことをうかがわせる。
JR米子駅よりバス10分 宗像下車 |
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16.福市遺跡・青木遺跡跡 【国指定史跡】
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福市遺跡は弥生時代から古墳時代の集落跡と墳墓群からなる遺跡。 居住域と墓域が明確に区分されてお
り、集落の変遷を考える上で重要な遺跡となっている。 また、この南側には縄文時代から平安時代の集落と跡と古墳からなる青木遺跡がある。
集落跡は福市遺跡と共に山陰地方を代表するもので、これらの遺跡の出土品は福市考古資料館に保管展示されている。
JR米子駅よりバ20分 安養寺入口下車すぐ(福市考古資料館) |
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17.勝田神社
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勝田神社は賀茂神社天満宮(米子市加茂町)等と並び、米子市内で最も古い神社の一つ。 主祭神は、農耕す
、商工業、平安の神である正哉吾勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつはやひあまのおしほみみのみこと)を祀る。
地元に伝わる伝承では、元は、外江村(境港市)にあったが米子城初代城主中村一忠の家老横田内膳が米子城の鬼門鎮護と勝田庄(米子を含む弓ヶ浜一帯)
の総氏神として元勝田へ移し、その後2代城主加藤貞泰により現在地に移されたとされる。
JR博労町駅より徒歩3分 |
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18.了春寺
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了春寺は、藩政期において鳥取藩主席家老米子城主の荒尾氏の菩提寺として栄えた。
もとの境内である勝田山の麓には米子市指定史跡の荒尾家墓所があり、荒尾家歴代の城主の墓碑が整然と並んでいる。
荒尾氏の屋敷は鳥取にあり、そこで藩政を司っていたが、死後は米子に帰葬された。
JR博労町駅より徒歩3分 |
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19.旧日の丸自動車法勝寺鉄道車両 附フ50形フ50号随客車 【県指定保護文化財】
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法勝寺電車は大正13年(19249)に開業し、米子市と南部町(会見・西伯)を結んだ。
この客車は明治20年(1887)英国製で、現存する我が国最古の4輪木製3等客車。 明治期の特徴をよく留め、貴重な鉄道遺産として注目される。
JR米子駅より徒歩10分 (元町サンロード沿い元町パティオ広場に展示) |
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20.旧加茂川沿いの 町並み
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旧加茂川派、米子城の外堀として整備され、藩政期には物流の幹線として水運が盛んであった。
灘町や内町、立町には後藤家、鹿島家をはじめとする廻船問屋、米問屋などの豪商の屋敷が並びにぎわった。
現在でも石垣の上には古い土蔵が並び、運河沿いの独特な歴史的景観が形成されている。
左図クリック拡大
JR米子駅よりバスで5分 市役所前下車徒歩10分 |
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21.米子城址 【国指定史跡】
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米子城の始まりは応仁~文明年間(1467~1487)に遡り、山名宗之により砦として築かれたと伝わる。
天正19年(1591)に吉川広家により本格的な平山城として整備された。
関ケ原の合戦後、伯耆の国18万石領主として中村一忠が入赴され、その後慶長15年(1610)に加藤貞泰が入城する。藩政期においては、鳥取藩主席家老
荒尾氏が米子城預かりとして代々城主を務めた。 米子城に関連する資料は米子市立山陰歴史館で見ることができる。
米子城址見る
JR米子駅よりバス10分 医大前下車徒歩5分 |
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22.旧小原家長屋門 【米子市指定有形文化財】
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米子市内で唯一残されている武家屋敷の建物。小原氏は鳥取藩主席家老の米子城主荒尾氏の家臣。
小原家の屋敷は西町にあったが、昭和28年(1953)に米子市に寄贈され、長屋門は市により現在地に移築された。 長屋門の規模は桁間20.38㍍
梁間4.03㍍で、木造瓦葺平屋建て入母屋造である。 入口正面に向かって右に1室、左に2室がある。左奥側の部屋には物置と考えられる屋根裏の中2階
がある。窓は出窓となっている。 近世城下町をしのばせる貴重な文化財であるる
JR米子よりバス10分 久米町下車 徒歩3分 |
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23.葮津掩体壕
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第二次世界大戦中において、米子は大陸に近いということから日本海側の防衛拠点として
注目され、米子気象台、航空機乗員養成所等の国の重要施設が整備された。
その後、昭和18年(1943)に海軍航空隊美保基地(現在の米子鬼太郎空港)が置かれた。
空港脇にある葮津掩体壕は入口が凸字状になっている。その形状から零式艦上戦闘機もしくは大戦末期に爆撃機から迎撃機として転用された
彗星を格納するために構築されたものと考えられる。 実際には航空機が格納されることはなく終戦を迎えている。
市内ではこのほかにも大篠津通信機器材格納壕や皆生海軍省通信隊通信壕など19件の戦争遺跡が確認されている。
JR大篠津駅より 徒歩10分 |
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