激動の幕末、微妙な立場の鳥取藩

  幕末の鳥取藩は、12代藩主・池田慶徳のもと「安政御改正」と呼ばれる藩政の改革を進め、学問の奨励や民意をくみ上げることに尽力。さらに、軍制の改革にも力を入れた。そ れらの成功により鳥取藩は、一時は「薩長土肥因」(因は因幡を指す)と称されるほど雄藩として一目置かれる存在となっていた。

 ところが、「尊王」と「倒幕」、「開国」と「攘夷」といった対立が日本中で起こっているなか、鳥取藩の立ち位置は微妙なものだった。
慶徳は水戸藩9代藩主・徳川斉昭の子であり、15代将軍・徳川慶喜の兄であった。つまり、代々鳥取藩主を務めていた池田家の血筋ではない。
11代藩主・池田慶栄(よしたか)が嗣子(しし) のないまま急死したため、幕府の命令で慶徳が鳥取藩主となったのだ。そのため、鳥取藩は幕府側に近い立場にあった。

 しかし、水戸藩の藩学は尊王思想の理論的支柱となっていた「水戸学」であり、その影響を受けて育った慶徳も、尊王思想の持ち主であった。このため、鳥取藩は幕府と天皇の 両方を大切にする「尊王敬幕」という曖昧な立場に立つこととなる。

このように藩主の姿勢が曖昧だったため、藩内では尊皇派と佐幕派のはげしい勢力争いが起こる。尊皇派で京都・伏見留守居役の河田左久馬の一派が親幕派重臣を暗殺したかと 思えば、佐幕派が尊王派を殺害と抗争が果てしなく続き、次第に藩の力は弱体化。その結果、薩長土肥と並び称されていた雄藩の立場からも脱落してしまう。
なお、弟である慶喜 は、最終的に公武合体の思想に傾倒していった。

 ところで、「開国」か「攘夷」かといえば、鳥取藩は攘夷派の藩であった。1863(文久3)年にはイギリス船に発砲している。報復に備え同年藩内に台場建設 (浦富・浜坂・賀露・橋津・赤崎・由良・ 淀江・境台場)
これは、急進的な攘夷派であった長州藩などと同じ行 動だ。実際、地理的な近さもあり、鳥取藩と長州藩は当初親しい関係にあった。
だが、禁門の変で長州藩が敗北し、朝敵になると距離を置くようになる。そして、幕府が長州征伐 を行なうと、これに参戦した。

 ところが、鳥取藩はこの第一次長州征伐に参戦はしたが、戦闘は行なっていない。第二次長州征伐にも参戦したが、このときは長州藩に敗れ、逃げ帰っている。ここでとうとう 鳥取藩も幕府を見限り、倒幕派に転向。
以後、鳥羽伏見の戦いには新政府軍として参戦し、以降は米沢(福島県)まで進軍した。こうして最後には新政府側についたものの、終始曖 昧な立場をとり、藩内の抗争で人材不足に陥っていたため、明治新政府に登用された鳥取藩士は、のちに初代鳥取県令(現・県知事)となる河田左久馬ほか数名しかいない。
(鳥取地理・地名・地図の謎  実業之日本社)
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