「池田家間での国替え!❔」

 現在の鳥取県の県域は、 江戸時代の鳥取藩のそれとほぼ重なっている。鳥取藩主は戦国武将・池田恒興の子孫が代々務めていたが、となり合う岡山藩(現・岡山県)の藩主も、江戸時代を通して池田氏が務めていた。
恒興 といえば、織田信長、豊臣秀吉の重臣であり、その子孫は江戸幕府においては外様大名にすぎない。それが中国地方に広大な領地を与えられたのは、恒興の子である輝政が、徳川家康の娘を妻にしてい たためだ。

 ところで、鳥取藩と岡山藩には因縁がある。関ヶ原の戦いの直後、因幡国の邑美・法美・八上・巨濃の4郡など6万石の鳥取城主となったのは、恒興の三男で輝政の弟にあたる長吉だった。
だが、長吉の子である長幸は1617(元和3)年に備中松山藩(現・岡山県)へ転封され、代わりにやってきたのが輝政の孫で、姫路藩主だった光政だ。

 この地に赴任して以降の16年間で光政は、鳥取城の増築や城下町の拡張などに精力的に取り組み、鳥取藩の基盤を築く。通例ならば、以後は代々、光政の子孫が鳥取藩主を務めることになるはずだった。
ところが、光政は1632(寛永9)年、なんととなりの岡山藩への転封を幕府に命じられる。

 光政が鳥取藩主を務めていた時期に、岡山藩主だったのは輝政の三男・忠雄だ。忠雄は、光政にとっては叔父にあたる。その忠雄が亡くなった際、本来なら忠雄の子である光仲が岡山藩の藩主となるはずだった。
 しかし、家督を継いだとき光仲は、わずか3歳であり、山陽の要衝であった岡山藩を治めるには荷が重いと幕府は判断。そこで、鳥取藩の基盤整備に手腕を発揮した光政を岡山藩主とし、一方、 幼い光仲を鳥取藩主とした。要するに、池田家どうしで国替えを行なったのである。

以後、明治時代に至るまで、この光仲の子孫が代々、鳥取藩主を務めた。そして、光仲の子孫は「鳥取池田家」と呼ばれるようになる。

 輝政は家康の娘をめとっているものの、当時としては普通のこととして、ほかにも妻がいた。そのため、同じ輝政の子孫でありながら、光仲には家康の血が流れているが、光政には流れていない。
このように、光仲は別格の存在だったため、光仲以降の鳥取藩主には、外様大名でありながら松平姓と葵の紋が与えられた。

さらに、大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で預けるという決まりがあったが、 鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ちこむことができた。
これは、親藩である越前藩(現・福井県)の松平家や、加賀藩(現・石川県など)の前田家など一部の大名にだけ許された特権であった。
(鳥取地理・地名・地図の謎  実業之日本社)
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