鳥取城とは

鳥取県鳥取市東町にあった平山城(ひらやまじろ)。戦国時代、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による「鳥取城渇(かつえ)殺し」の舞台として有名。

国指定史跡。「日本100名城」の一つ。
標高264mの久松山(きゅうしょうざん)の山頂から麓にかけて築かれ、戦国期の山城から近世の平山城への変貌がうかがえる。

鳥取城は、因幡山名(やまな)氏が布施(ふせ)の天神山城の出城として築城したとされる。1573年(天正1)、山名豊国(とよくに)は居城を天神山城から鳥取城に移し、因幡統治の本城 とした。
1580年(天正8)、秀吉の中国平定の一環として鳥取城攻めが始まると、城主豊国は秀吉に降った。

これを不満とした家臣は従わず、豊国を追放し、毛利(もうり)氏に帰属した。翌1581年(天正9)、毛利方の部将吉川経家(きっかわつねいえ)が入城し、秀吉の兵糧攻めに降伏、落城する。すさまじい包囲 戦を物語る遺構が今も山中に残っている。

その後、宮部継潤(みやべけいじゅん)が城主となり、次いで1600年(慶長5)に池田長吉(いけだながよし)が入城。長吉は大改修を行い、近世城郭の基礎を築いた。
1617年(元和3)、姫路から池田光政(みつまさ)が転封し、城と城下町を整備した。
光政は1632年(寛永9)に備前岡山の池田光仲(みつなか)と領地替えとなり、以後明治維新まで240余年間続いた。
1879年 (明治12)に建物はすべて破却されたが、天守台、門、曲輪(くるわ)、石垣、堀などの遺構が残り、鳥取城跡・久松公園として整備されている。

(インターネットから)
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