(毛利VS織田氏の壮絶な戦いの舞台) 国指定鳥取市内にあり、「日本100名城」のひとつにも数えられている「鳥取城」。県庁の背後にある久松山に建っていることから「久松山城」とも呼ばれるこの城は、もとは因幡守 護の山名氏が布施(現・鳥取市湖山町)の天神山城の出城として築城した。 1573(元亀元・天正元)年に、山名豊国が居城を天神山城から鳥取城へと移し、以後、因幡国の統治の本城とした。現在、城自体はすでになく、跡地には天守台や石垣など が残っているだけだ。現在の状態からはうかがい知れないが、戦国時代、この城を舞台に毛利氏と織田氏がはげしく争っている。 天下統一を目指していた織田信長は、1577(天正5)年、配下の羽柴(のちの豊臣)秀吉に中国地方攻略を命令。秀吉は、播磨、備前、美作、但馬などの国を次々と攻め 落とし、1580(天正8)年、因幡国に侵攻する。 このとき因幡守護であり、鳥取城主だった豊国は怖れをなして、秀吉に降伏してしまう。すると、思わぬ事態が起こる。 なんと降伏に反対する家臣団が豊国を城から追放し、毛利氏重臣である吉川元春に援軍を要請したのだ。 これに応えて新たな城主として、文武両道に優れた武将として 名高かった吉川経家が派遣された。家臣団が主君である豊国を追放したのには、豊国が従属先をコロコロと鞍替えすることに愛想を尽かしたというのが要因なのだろう。 再び毛利方となった鳥取城を攻略すべく秀吉軍が動く。秀吉軍が2万を超える大軍だったのに対し、鳥取城には山名氏配下が1000人、毛利氏配下が800人、近隣から集ま った農民兵が2000人の、合わせて4000弱の守備兵しかいなかった。 しかし、鳥取城は難攻不落の城として知られていたため、秀吉は慎重策を取り、得意の兵糧攻めに出る。 まず秀吉は、鳥取城周辺の穀物の買い占めを図った。結果、穀物価格は上昇し、城内からも兵糧をこっそり売り出す者さえ現われたという。 そのうえで秀吉は、鳥取城の周囲に深さ8メートル、全長12キロメートルの堀を築き、塀や柵も厳重に設けて、城に物資を運びこめないようにした。さらに、朝から晩まで 鐘や太鼓を打ち鳴らし、兵たちに大声を上げさせたかと思うと、突然、鉄砲や火矢を放って城内の不安をあおった。 それでも、経家に率いられた城内の兵たちは必死にもちこたえていた。だが、鳥取城への水上交通の要であった千代川(湊川)河口の海戦で、毛利水軍が織田軍に敗れた ことにより、完全に食糧補給の道を絶たれてしまう。 その結果、城内では雑草から犬、猫、鼠まで食い尽くし、死者の肉まで奪い合う地獄絵図がくり広げられることとなった。この惨状はのちに、鳥取城の「渇え殺し」と呼ば れることとなる。 最終的には、将兵たちを救うために経家は開城を決意し、みずからは自害した。 こうして、4ヵ月におよんだ寵城戦は終わりを告げ、鳥取城は落城した。現在、鳥取城跡近くには経家の銅像が立てられている。経家の胸に去来するものは、存分に戦い切った という満足感だろうか、それとも敗北に対する無念だろうか。 |