鳥取藩のこと
別称:因州藩・因幡藩または単に因州。明治元年に10月「藩治職制」が定められ「因幡鳥取藩」

〔藩の概観〕
 鳥取藩は、因幡・伯耆の2国32万石を領有する外様の大藩である。
鳥取藩の成立は、元和3年(1617)、池田光政が播磨42万石から因幡・伯耆両国32万石に移封されたのに始まるが、一般には、 寛永9年(1632)、池田光政と備前岡山藩を継いだ幼少の従兄池田光仲とのお国替(交代転封)により、池田光仲が岡山から鳥取に入ってから以後廃藩に至るまでの光仲系池田氏の因・伯両国支配を鳥取藩と いっている。そして、居城が因幡国邑美郡鳥取に在ったことから、因幡藩・因州藩と呼ばれることが多かった。
[藩主略年表]

 元和3年、池田光政が入国する以前の因・伯両国は小大名割拠であり、関ヶ原の戦い後でも因幡に池田長吉(鳥取)・亀井茲矩(鹿野)・山崎家盛(若桜)の3大名、伯耆に中村忠一(米子)が配置され、 中村氏改易後の伯耆者は市橋長勝(八橋)・加藤貞泰(米子)・関一政(黒坂)が配置されていた。

 天正9年(1581)、羽紫秀吉の鳥取城攻めの結果、因幡と東伯耆は秀吉に、西伯耆は毛利方の吉川氏に分割され、秀吉は鳥取城に宮部継潤けいじゅん、若桜に木下重賢、 鹿野に亀井茲矩これのり、浦富に垣屋光成を入れた。 関ヶ原の戦に、亀井を除く因幡の大名は西軍に属して滅亡し、その後は前述のような大名配置となった。

 宮部氏のあとに鳥取城に入ったのは、播磨姫路城に入った池田輝政の弟・池田備中守長吉ながよしである。長吉は因幡国の内、邑美・法美・八上・巨濃この4郡6万石を領した。鳥取に入った長吉は、西軍宮部氏のたて 籠る城として亀井茲矩等に焼打された城下町の復興整備と城の拡張にあたった。

 長吉は「領内城下仕置緊(きびし)く、山役・川役・棟竈の役・酒の役・麹の役・諸事に役をかけた」(『因幡民談記』)という。慶長13年(1608)の八上郡稲常村の検地帳が現存していることからして、この頃長吉 は領内の検地を実施したと考えられる。

 慶長19年9月、長吉は江戸で病死し、その子長幸が継いだ。長幸は大坂の陣に加わり手柄をあげるが、元和3年(1617)、池田光政の入国にともなって備中国松山に移された。
 元和2年(1616)、姫路城主池田利隆が死去、八歳の長子新太郎光政が家を継いだが、幕府は「播磨は中国山陽道の管轄、幼主鎮守の地にあらず」として、翌3年、10万石減封の上、 因伯両国に移封を命じた。
この移封について『因幡民談記』は、「播州は大国繁華自由の処なるに、其処をはなれる当国は山野辺鄙、殊に小身の郡主の城下に移り諸事不自由にして調かたし」 と述べている。家臣への知行宛行と城下町の拡張が、入国当初の重要課題であった。幼主を江戸において、国政は老臣衆議で執行されたが、政務は主として家老日置豊前と土倉市正が担当したという。 光政の鳥取在城は寛永9年(1632)までの16年間であった。

 寛永9年(1632)4月、岡山城主池田忠雄が死去し、わずかに三歳の勝五郎光仲が家督を継いだが、幕府は「備前は手先の国なれば、幼主にては叶ふべからず」(「池田家履歴略記」)と、先述の ように従兄光政との交代転封を命じた。
当時、池田家には河合又五郎事件がもとで、旗本と大名の対立抗争にまで発展するという問題があり、幕府もその処置に困惑していた。幼主改易の噂もあった が、それが転封で済んだのは、徳川氏との血縁もさる子ことがら、家老荒尾但馬成利・同志摩嵩就兄弟の功績であったといえる。

 幼主を江戸において、国政に老臣の合議で執行された。とくに荒尾但馬成利は、池田氏の外戚でもあり、家中第一の功臣であり、国替えにあたって幕府から両国仕置きと米子城預かりを直命された こともあって、その権力は絶大であったしかし、慶安元年(1648)、19歳で初入国した光仲が藩主親政に乗り出すと、老臣との間、とくに荒毛成利との間に対立が生じた。光仲は幕閣や従兄の岡山 藩主池田光政等に相談し、慎重に対処しつつも、軍式と軍役の設定および家中法度の整備・家臣への知行給付を通じてきびしい家臣団統制を実施した。また、東照宮の勧請・造営は、幕府への忠誠の 証であるとともに、自からの徳川家との血縁を誇示し、幕府の権威を利用して藩主権の確立をめざしたものであったといえる。

 光仲の藩主権の確立にとって重大問題は、筆頭家老で家中一の老臣荒尾成利の存在であった。承応元年(1652)、光仲は荒尾成利を罷免し、隠居させた。一つまちがえば御家騒動に発展しかねない この問題を、光政・酒井忠勝・徳川頼宣(紀州・舅)の強い支持を得て、成利だけでなく嵩就もまきこんで有利に解決し、藩主権の確立に成功した。

 その後光仲は、藩政確立に向けての諸政策を精力的に進める。貞享2年(1685)、56歳になった光仲は隠居し、家督を長子綱清に譲り、次男仲澄に廩米2万5000石を分知し、分家を立てた。 仲澄の分知分家は居館が鳥取城の東にあったので東館といい、また、江戸邸が三田に在ったので三田家ともいう(鹿奴藩(しかのはん)は鹿野藩・鳥取東館新田藩ともいう、藩庁は鳥取に置く)

 貞享2年家督を継いだ二代綱清は、元禄6年(1693)隠居光仲の死去まで交代で参勤していた。光仲は生前、黄檗宗に改宗し、菩提寺竜峰寺の本山妙心寺と争ったが、その解決は死去の翌年に なり、綱清は黄檗宗の興禅寺を建ててこれを菩提寺とした。

  綱清には男子がなく、世子に異母弟清定を望んだが、血筋を重んずる立場からの反対が強く、分知東館仲澄の長子吉泰よしやすを養子に迎えた。綱清の治政で特筆すべきは「請免うけめん制」の施行である。 「請免制」とよばれる徴租法は一種の定免法で、数年間の試行の後、在方吟味役米村所平の努力で元禄11年(1698)から全面的に実施された。請免制は以後鳥取藩徴租法の基本として幕末まで続いた。 請免制の実施とそれにともなう在方の改革は、鳥取藩の最初の藩政改革ともいうべきものである。

 元禄13年(1700)、綱清か隠居し、養子の吉泰が家督を継いだ。この時綱清は、異母弟清定に廩米1万5000石を分知し分家を立てた。これを西館・鉄砲州家という。(若桜藩(わかさはん)は鳥取西館新田藩ともいう、藩庁は鳥取に置く)吉泰の時代は連年または 隔年にわたって、城下または江戸屋敷の火災、さもなくば洪水にみまわれている。その上、幕府の手伝普請を課せられ藩財政は窮乏した。さらに、享保2年(1717)の百姓一揆は全藩に広がり、結局 御救米3万8000石余を支給しておさめているが、多難の時代であった。多難の時代をよく支えたのは、家老鵜殿長春等の補佐があったからともいえよう。

 元文4年(1739)2月、参加者5万とも6万ともいわれる、いわゆる鳥取藩元文一揆が起こった。一揆がやっと鎮った7月、藩主吉泰が死去し、宗泰が家督を継いで4代藩主となる。宗泰は一揆の 処理をし、財政建直しに着手しようとするが、在位10年にして延享4年(1747)31歳で死去した。しかし、世子重寛しげのぶは一歳数か月の幼児であり、家督をめぐ って問題が生じるが、生母桂香院(紀州・徳川宗直女)の努力で重寛が5代藩主となった。

 幼主の相続についで、幕府は甲州川々普請手伝を命じた。藩財政の窮乏の上に、宝暦元年(1751)12月には会見郡で数万の農民が参加する一揆が起こった。このような状況下登用されたのが、 御徒出身の地方巧者安田七左衛門成信であった。安田は勘定頭・勝手方在方長役に栄進するが、その間、請免制を基礎とする在方支配体制の再編を進める宝暦改革に努力した。

しかし、幼主を補佐する家老荒尾成煕との対立から免職となり、その後藩政は家老荒尾成煕を中心に展開するが、藩政の混迷が続く。安永7年(1778)荒尾成煕の病気辞職によって家老乾長孝が藩政の実権を握り、藩政の刷新 に乗り出す。乾長孝は寛政5年(1793)の致仕まで在職35年、ことに安永・天明期の藩財政の危機をその学識と人柄によって切り抜けた。重寛の治世には藩校の創建(宝暦6年)、蝋座の設置による 蝋の専売実施も特筆される事蹟である。

 重寛の後、6代治道はるみち・7代斉邦なりくに・8代斉稜なりとし・9代斉訓なりみちとつづく。 この寛政から化政期をはさんで天保期末までの時代は文化史的には見るべきものがあるが、財政的には困難をきわめ、文政3年(1820)の新古借金帳によると、江戸・大坂での藩債は81万8820 両余にものぼっている。これに対して、木綿をはじめとする国産品の流通統制や土地調査などを実施するが、いずれも成功せず、また、9代斉訓以降、年少の藩主がめまぐるしく交代し、藩政改革も 思うにまかせないまま幕末期を迎える。

 嘉永元年(1848)6月、10代慶行よしゆきは在位7年、17歳で病死した。弟祐之進を仮養子に届けていたが、幕府は加賀藩主の前田斉泰の次男喬松丸を養子に命じた。 11代慶栄よしたかである。

池田家にとって初めての他家からの養子であり、家中に不満もあったが、新藩主を迎えて家老池田兵庫介貞之は、人事を刷新し、田村貞彦・田村図書 を御用人に登用し、藩政改革に着手しようとした。ところが、嘉永3年5月、慶栄は初入国の途中伏見で病死してしまった。幕府と相談して迎えたのが、水戸藩主徳川斉昭の5男慶徳よしのり である。

 鳥取池田家は、池田輝政の後室徳川氏(家康女督姫)を母とする忠継・忠雄に始まり、また水戸徳川家から慶徳を迎えることによって徳川氏との関係は密接となり、外様大名とはいえ、慶徳は家門との 意識が強く、弟慶喜が将軍後見職・将軍になるに及んで、慶徳を藩主とする鳥取藩の政治的立場は微妙であった。

 嘉永5年(1852)、慶徳の初入国とともに藩政改革が実施に移される。改革は藩校の拡充という学制改革から始まる。改革において教学の確立を重視する方針は、徳川斉昭が水戸藩天保改革で執った 方針でもあった。慶徳は父斉昭によく相談し、斉昭もこと細かに教示している。学制改革についで、国産奨励策と財政改革が着手され、さらに安政2年(1655)にぱ御用人田村貞彦を中心にして 大規模な在方改革が始まる。嘉永・安政期の改革には財政・農政の功者・少壮の儒者が集められ、彼らは田村貞彦を中心に改革派を形成し、その中から鳥取藩尊攘派が結成される。

 在方改革は安政5年中にはほぼ終了し、つづいて軍制・職制の改革に着手することになるが、これらの改革は家中の対立抗争を生み、さらに左方改革に対する抵抗と反動が生じ、その上、万延・文久 期になると急変する内外の政治情勢もからんで、藩政改革も思うように進展しなくなる。

 慶徳は斉昭の薫陶を受け一貫して尊王攘夷の主張を貫くが、文久2年(1862)5月帰国の途中、入京国事周旋を勧められたのを振り切って帰国したことから、藩内の尊攘派と旧守派の対立が表面化し 、さらに翌3年8月17日には、萩(長州)藩とも通じていた藩内急進派が京都本圀寺の旅宿に旧守派の君側の重臣を襲い斬殺する因幡二十士事件が起こるなど対立は激化した。慶徳は尊攘論を主張し ながらも、尊攘派・守旧派を共に用い両派の均衡に意を用いた。それだけに国論の統一も難かしかった。禁門の変・長州出兵をめぐり、萩(長州)藩に近い急進派の動きも活発であったが、これを押え て出兵した。

 大政奉還・王政復古へと政局が急転していく中で、将軍慶喜の兄慶徳を藩主とする鳥取藩の立場は微妙であった。慶徳は鳥取にあって動けなかったが、在京の家老荒尾成章らの判断により鳥羽・伏見 の戦には薩長軍に加わって参戦し、倒幕の立場を明らかにした。

 慶喜追討令が出ると慶徳は、待罪書を提出し隠退を申し出るが、山陰道鎮撫使西園寺公望の仲介もあって復職再勤が許され、明治2年版籍奉還後は鳥取藩知事となり廃藩置県におよぶ。鳥羽・伏見の 戦につづく東北戦争には鳥取藩兵は官軍として出兵し、めざましい進撃をつづけた。その中には京都の農兵山国隊も含まれていた。
出典(『鳥取藩史』『鳥取県史』『贈従一位池田慶徳公御伝記』)
参照資料:藩史大辞典(第6巻)
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