日本にはじめて生姜を輸入した ❔ |
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鳥取市西部にある鹿野町は、江戸の風情を色濃く残している城下町だ。江戸時代そのままの地蔵小道や丁字路、L字路といった道路が
現在も残されており、町全体を網の目のように走る水路も当時のまま。馬や牛などの家畜をつなぐために使用された「牛つなぎ石」(右図)が町の各所に点在し、商家造りの古い建物
なども、そのままの形で保存されている。 鹿野町の基盤をつくったのは、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名であり、鹿野城主だった亀井茲矩である。毛利氏に滅ぼされた尼子氏の復興に命を懸けながら、 非業の死を遂げた戦国武将・山中鹿介の娘婿である茲矩は、江戸幕府が開かれると、因幡高草郡(現・鳥取市)2万4200石を加増され、鹿野藩初代藩主として城下町の発展に 尽力した。 さらに茲矩は、備中国(現・岡山県)で命を落とした義父・鹿介の遺骨を回収し、鹿野の地に墓を建てている。鹿介の墓が置かれることになったのは、「持西寺」という名 の寺だったが、鹿介の墓をつくる際に鹿助の実名である山中幸盛から二字を取って「 ところで、城下町の整備に力を注ぎ、義父を手厚く葬ったというと、実直な人物のようだが、茲矩はそれだけに収まらないユニークな個性の持ち主でもあった。生涯を通じ て、非常に海外志向の強い人物だったのである。 たとえば、豊臣秀吉の配下だったころ、秀吉から恩賞の望みを聞かれ、「琉球国をたまわりたい」と答えている。当時、琉球国(現・沖縄県)は日本でなく外国であった。 この返答に対して秀吉は、「亀井琉球守殿」と書いた扇を授けたとされているが、実際に琉球が茲矩の領地になったわけではなく、これは一種の秀占流のシャレだろう。 茲矩は海外志向を捨てることなく、自分で台州守の号を称したこともある。台州とは、現在の中国浙江省の台州市のことだ。もちろん、茲矩が中国大陸に領地をもったわけで はなく、これも一種のシャレのようなものだ。なお、茲矩の子が建てた茲矩の墓には「中山道月大居士」(中山道は琉球国の別名)と刻まれている。 ただ、茲矩は言葉だけではなく、鹿野藩主となったのち、幕府の朱印状を得て、シャム(現・タイ王国)と熱心に交易を行なっている。鎖国政策が取られる以前は、西国の 大名を中心に南蛮貿易がさかんに行なわれていたが、日本海側の大名が行なっていた例は数少ない。一説には、生姜を東南アジアから日本に持ちこんだのは茲矩だといわれている。 |