石碑・石造物
  美穂地区内にある石碑・石造物を記載した。但し神社、仏閣境内にある石碑・石造物は省略。

所在地 鳥取市源太
常夜燈
場 所 源太作業場の横   高さ 1.89m
表 面 文政十一年子十一月吉日(1828年)         金比羅大権現常夜燈  萬人講
    左側面 世話人
        長右衛門、源左衛門、弥兵衛
鳥取市域の石造物のなかでも「金毘羅大権現」を念じたこの種の常夜燈は数少ないと思われる。それだけ川を大事にしたと言うことであろう。
常夜燈の設置場所は、昭和初期の千代川改修前までは、旧英雄屋敷前の道路を挟んで、千代川寄りの法面に設置されておった。初期の改修と、戦後の源太橋架橋と、 二度に亘り移設したのが現在地である。
火袋は昭和十八年九月十日の鳥取大震災で倒壊して破損、以来平成十三年の夏、石袋に替えるまで木枠で過ごした。世話人三名 はどの家の系列か古文書もなく判断としない。
(郷土史 源太村 横山英雄著 より抜粋)
 
所在地 鳥取市下味野
近藤孝平先生 頌徳碑
場 所 旧近藤医院跡 高さ 2.9m
銘 文 表面 医師 近藤孝平先生
頌徳碑 下味野神社 小森一秀書
     裏面 建立記
医師近藤孝平先生は昭和初年出生地比処医院を開業されおよそ四十年間の永きに亘り住民医療のため献身的に尽粋された。
激動昭和の最も困苦欠乏の時代を先生は昼夜を訪わず遠近を顧みず常に慈しみと親しみを以て診療され更に学校保健教育に又社会保健指導に貢献されそ の功績誠に大であった。
先生逝去されて二十年に至る茲に人々の感謝の浄財を以て碑を建立し永くその遺徳を偲ぶ。
  平成二年七月吉日(1990年)
                                   頌徳碑建立実行委員会誌す

石柱(下味野神社麒麟獅子舞韓国公演記念)
場 所 下味野神社境内
銘 文 表面 下味野神社麒麟獅子舞韓国公演記念
    裏面 公演期日 平成11年九月十九日より二十一日(1999年)
  建立    同年十月吉日
県指定無形民俗文化財 下味野神社の獣麟獅子舞
                 指定年月日 平成十年四月二十一日

案内板から
 下味野神社の雛麟獅子舞は[春祭り]、[夏越祭り]の際に神社に奉納される獅子舞である。該麟獅子舞は、因幡地方(県東部)に広く伝わっている獅 子舞で、県内では約一五〇頭の騏麟獅子舞がみられる。
この騏麟獅子舞は、初代鳥取藩主池田光仲が日光東照宮を勧請して鳥取東照宮(樗谷神社)を創 建した時に始められたといわれる。
下味野神社の騏麟獅子舞は「権現流」といわれ、その獅子頭は、樗谷神社から拝領したものと伝えられている。この獅子頭の後頭部には「天保十四年卯六月吉日」 (天保14年=1843年)の刻銘があったと伝えられ、この刻銘のとおりであれば、少なくとも江戸時代終わり頃には騏麟獅子舞が舞われていたこととなる。
 下味野神社の騏麟獅子舞の特徴は「夏越祭り」に見ることができる。村の出入口で獅子舞を舞うことで村の外に災難を追い払い、舞を終えた後、自分のはいていた 草鞋を神社境内の大木に投げ上げてひっかける。他の獅子舞にはみられない珍しい光景である。下味野神社の骸麟獅子舞は、因幡の騏麟獅子舞の典型としてその価値は高い。

【獅子舞の役割と人数】
 獅子  前かぶり後かぶり 二人
 狸々  一人
 座方  太鼓 一人
     鉦  一人
     笛  一 〜 三人
                                平成十八年三月 鳥取県教育委員会

愛の碑
場 所 下味野公会堂(公民館)前  高さ 2.80m
銘 文 表 面 遺愛の碑(横書き)開拓記念碑
    遺愛之碑(筧雄平翁)
    開拓記功碑(現代誤訳:鳥取市教育委員会)

 「求める所があって事をなすのは徳のない人。信じることがあって事をなすのは徳のある人の業である。
気高郡の味野村(下味野村)の筧雄平翁は以前から心を公益にとどめ、 その名声は一郡に秀でている。公益事業をなすために、人の批評を顧みず精力的に実行して惑うことがない。自ら深く信じなければ何をもってこのような事業を起こすことが出来るだろうか。 村に原野あり。久しく荒廃したままである。雄平翁が言うには原野を開拓して林畑(造林)にするしかないと。
 これを村民に相談すれども皆の意見は一致しなかった。雄平翁は、すぐさま奮起して同士をまとめあげ東へ西へ駆け回り、遂に村の意見は定まった。明治9年(1876年)に初めて工事を始め、 そして明治45年(1912年)に完成した。
林野(林畑・造林)43町(約43ヘクタール)、水田6町(約6ヘクタール)余を得たのである。それに従って規約を制定し輪伐(林木を順次伐採すること)。分圃(林畑を区分して植樹などをする こと)、耨耕(草切り耕すこと)の法を設け、永く後世に伝えられるであろう。開拓地から得られる生産額は、年毎に増え続け。よい具合に村の富とすることができた。
 その功績は実に大きいものである。その他、教育・殖産においての尽力は枚挙に暇がなく、人は皆、これを徳としたのである。雄平翁は大正5年(1916年)3月12日をもって他界した。
齢75。生まれつき誠実で父母に孝行し兄弟と仲良く、小さな事には関わらず、皆が雄平翁になついたのである。翁を知る者、知らぬ者、その訃報を聞いて心を痛めない者はない。 こうしたことから村の長老らが談義して碑を建立し雄平翁の残した業績を後世に伝えようと、私(内海)の所に来て撰文を求めたのである。私はかつて気高郡の郡長の職にあった。雄平翁と 最も親しく、その人となりを立派だと思っている。道理として辞退できないので敢えて、そのあらましを記し合わせて銘記して曰く。
 田畑を開拓し、生産が豊かに向上した。雄平翁のその業績と、その徳はいつまでも残るであろう。
  大正6年12月(1917年)
  正六位勲四等 内海 淡   天堂浅井写書
  内海談 気多郡長、東伯郡長を歴任。第六代鳥取市長
      (在任:大正6年12月12日〜大正7年7月18日)
                        浅井天堂 書家

保育事業発祥の地
場 所 下味野(集会所前)
銘 文 表 面 保育事業発祥の地
        鳥取市長 西尾迢富書
        筧 雄平
        天保13年(1843) 〜 大正5年(1916)

農繁期に保育に欠ける乳幼児を見て、私財を投じて明治二三年全国初の農繁期託児所を開設し児童福祉の推進と地域住民への奉仕に努め、民間での保育事業の振興発展に貢献された。
また教育振興に情熱をそそぎ郡内各小学校に再三にわたり学校建設資金の献納に努められた。

石碑(灯籠)
場 所 下味野 浅田 徹宅前  高さ 3.78m
銘 文 表 面 大神宮
     裏 面 あんとう吉五郎
          世話人  田なか甚七
    右側面  明治八年乙亥九月日(1875年)
現下味野公会堂あたりにあったが、昭和十八年九月(1943年)の鳥取大震災により倒壊し、その後現在地に移設された。




石碑
場  所 下味野 浅田 徹宅前  高さ 1.10m
表  面 島渡甚九郎
右側面 明治十六年五月口日(1883年) 世話方 若連中 同
       近藤口口
本名は村上甚九郎、「島渡」は四股名。村上誠一氏の義理の祖父。剛毅な性格で知力、体力に優れ、地域に貢献された。
鳥取市誌には、世話方若連中、荒井川与三右門と記されている。



頌徳碑
場 所 下味野 永楽寺境内(特例として掲載)  高さ 1.53m
銘 文 表 面 筧 雄平  頌徳碑
     裏 面 大正七年三月建立(1918年)   気高郡美穂村
美穂村を始め気高郡内の小学校に、私財を寄付するなど、教育施設等の充実に功績があり、そうした地域貢献に対し建立されたものと思われる。






廻国塔
場 所 下味野供養塚(通称)いぼ地蔵   高さ3.13m
銘 文 表 面 天下和順享保十乙已年五月(1725年)
        先達野瀬前八郎右衛門
        四国西国      日本
        奉納大乗妙典六十六部  塔
                 廻国
        口父板東
        日月清明宝暦十辛辰天六月後八郎
        右衛門子孫出廻国可誌此塔
        明和九辰天
         心勅讀御念佛五千萬遍回向
         七月中旬    願主   八郎右衛門
能瀬家は下味野にあって、筧家と肩を並べる程の勢力があったと思われる。
後に武士との争いが因で北海道に転出したと聞く。同家の刻銘が下味野神社鳥居にもある。

イボ塚
場 所 下味野供養塚(通称)いぼ地蔵
 
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