石碑・石造物
  美穂地区内にある石碑・石造物を記載した。但し神社、仏閣境内にある石碑・石造物は省略。

所在地 鳥取市下味野
石碑 (上田三蔵功労記之碑)
場 所 鳥取市下味野公会堂 正面右   高さ3.17m
銘 文 表 面 上田三蔵功労記之碑 鳥取県知事 遠藤 茂書
     裏 面 昭和三十三年八月日(1958年)上田こう
          発起人 松本寵蔵、田中岩蔵、福田良秋、
上田雄正






慰霊碑 石碑
場 所 下味野公会堂 敷地内     右正面  高さ4.85m
銘 文 表 面 日支東亜戦争戦没者  慰霊碑  鳥取市長 高田 勇謹書
     裏 面 日支東亜戦争戦没者
          寄隠者 藤原建設
          社長 藤原 仙太郎、専務 藤原 忠之、
                  常務 藤原 秀光
          世話人 1区区長 中田 喜志、2区区長 中田 光蔵
            3区区長 上田 重久
            市会議員 前田 俊政
            田中 義夫、坂本 岩松、藤原 長太郎
             戦死者23名の氏名と戦死年月日

石碑
場 所 下味野公会堂 敷地内左奥  高さ0.84m
銘 文 表 面 阿弥陀寺十三代
寂天蓮社幡譽誉大公上人大和和尚塔
     裏 面 不明







石碑 (記念碑)
場 所 下味野2区消防格納庫前  高さ1.86m
銘 文 表 面 下味野地区改良事業  竣工記念碑
          鳥取市会議員  前円俊政書
     碑 文 下味野地区集落改善事業に関する経緯について
          昭和60年3月吉日(1985年)

改良事業以前は老朽化が多く、しかも狭い土地に密集していて道路は迷路状であり、下水排水路は整備されておらず生活環境は極めて劣悪であった。
1970年(昭和45)年頃より小集落改良事業による整備の機運が盛り上がり1973年8月14日には地元で区画整理推進委員会が発足した。
1974年から住宅用地の先行取得に入り1975年には地方改善事業により住宅用地内幹線道路延長600m、幅員6mを整備した。特に不良住宅が密集して いた千代川堤防寄りを対象として、住宅戸数143戸の内、不良住宅戸数89戸という状況の中で、41戸を存置し、それ以外は先行取得された住宅用地等に 移転した。
この記念碑は、事業がおおむね完成したことをうけて、1985年3月建設された。

石碑 (石田法晃師の顕彰碑)
場 所 下味野二区墓地  高さ3.15m
銘 文 石田法晃師の顕彰碑
       鳥取市議会議員 前田俊政書
     碑文(概略)

昭和4年13歳で京都東本願寺に修行し後に住職になる。
福田石蔵宅で学問所?を開設し、青少年に宗祖親鸞の教義を教える。
 又、十余年 闘病生活を送りながらも自らを律しつつ布教を行い多くの人々を教導された。
 地域社会の福祉のため奉仕活動を実践。昭和52年12月25日62晟で没。

石碑
場 所 下味野一区土手墓地  高さ2.48m
銘 文 表 面  松響  巌 塚
           鳥取県知事  石破二郎
     左側面  発起人 中田辰雄、森下政市、上円重久
           世話人  前田俊政 7名
     裏 面  昭和三十二年十月建立(1957年)

わが国で、いわゆる相撲の形が現れたのは垂仁天皇の時代に野見宿瀰と当麻蹴速の勝負においてであろう。
それ以前には出雲の伊那佐の小浜で国譲りの相撲といって健御名方神と健御雷神が力比べをしている。その野見宿瀰神社が鳥取市徳尾にあることからみて乱この因伯の地は相撲にゆかりがあると  いえる。
 明治の終わりごろから因伯相撲が始まり、出世相撲として五両から八両までの位の段階で、因伯の相撲番付にのせられた。出世の方法は無両の力士が五両の力士2人に勝てば五両に、 さらに六両の力士2人に勝てば六両に進んで、力次第で一日の興業中に七両、八両に昇進した力士もあった。この出世相撲が県下の力士の養成と普及に大いに役立っている。
まわし相撲=一人前(七両、八両)の力士になったことを記念して、化粧まわしを作る相撲で中入りの時、付けて土俵に上がり、相撲甚句とともに披露する。

"塚相撲" =力士の功績をたたえて塚を作る相撲が普及し部落対抗意識が高くなり、たいてい村はずれに建てた。
"役相撲" =親方、若者頭、世話頭など、頭や役になった記念に、相撲を施した。
"引退相撲"=力士の引退した記念に親方や力士たちに披露する相撲。
"追善相撲"=死亡した力士を追善するため催した相撲。
"行事相撲"=行事の装束を作るため、催した相撲。
"祭相撲" =一名、宮相撲と称しお祭りの時に行う。

これを草相撲といって、大衆的でだれでも参加して行われた。
昭和23年に鳥取県相撲連盟が結成されて青年相撲も因伯相撲も主催は県相撲連盟が行うようになった。
昭和28年国体青年の部で藤原巌さんほかが団体4位を勝ち得て大いに意気をあげた。(平野伊蔵さんの書より抜粋)
「松響巌塚」は藤原巌さんの功績をたたえて建てられた塚である。

石碑
場 所 下味野北川橋詰  高さ1.44m
銘 文 表  面 頭取  若勇芳松  塚(上田 芳松)
     左側面 青年会発起 世話方 森下政市、中田先蔵、前田為蔵
     裏 面 昭和三十二年十月建立(1957年)






石碑
場 所 下味野一区土手  高さ1.19m
銘 文 表 面 花の山新造 塚(信田 新造)
     左側面 世話人 信田彦三郎、藤原豊松
     右側面 明治三十五年五月六日(1902年)







石碑
場 所 下味野一区土手  高さ1.66m
銘 文 表  面 若柳幸一 塚(福田 幸一)
     左側面 世話人 前本貞一、松本若松
     右側面 大正七年九月日建立(1918)







石碑 (記念碑)
場 所 鳥取市服部  高さ1.66m
銘 文 表 面 圃場整備記念碑 鳥取市長 金田裕夫書
     銘板表面 昭和51年 東千代圃場整備事業第一工区
           施行面積 228ヘクタール 事業費 三億五千4百万円
           工事施行者 浅田建設株式会社 美穂建設有限会社
                 江山建設有限会社
     銘板裏面 工区責任者
              組合長 中西美都男
              庶務係 沢円三郎
              顧 問 前田俊政

              役 員 前田繁好、中田鹿男、前本石蔵、中島広秋、上円光秋、
                  藤原広幸、中田 勇、依藤伊太郎、中山 茂、中田喜代志
                  福田実広、松本広道、松本 保、上円 肇、西垣正明、
                  大西甚一、依藤幸夫、筧 篤、森本隆明
 
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