北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社で、学問の神様・菅原道真公をお祀りした全国に一万社以上ある天満宮・天神社の宗祀(総本社)の神社。 天暦元年(947)に創建され菅原道真を祀った神社で福岡の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心。 |
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北野天満宮の創建 菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災害が相次いだ。 これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。 天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。 それに基づいて天暦元年(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。 |
菅原道真伝説 道真の死後、いろいろな騒ぎが起こる、その騒ぎの中で道真はどんどん神格化されていく。 柳田国男は人が神として祀られる第一の条件は、「その人がこの世に恨みを抱いて死んで行った場合である」と言っています(柳田国男「人を神に祀る風習」)。 その騒ぎとは 菅原道真は権勢を振るいつつあつた藤原氏に対するけんせい役になり宇多天皇の信任を受け、政治の要職に起用されていた。宇多天皇が醍醐天皇に譲位された後も、道真は昇進をつづけ、 貴族や公家の反発が大きくなった。 延喜元年(901)道真は従二位をうけた。しかし、藤原時平により、醍醐天皇を退けて自分の娘を嫁がせていた斉世親王を皇位に就けようと謀ったと 嫌疑をかけられ、大宰府権帥(ごんのそち)に左遷された。子供4人も流刑に処せられた。 延喜3年(903)、濡れ衣を着せられたまま大宰府で死去し、同地の安楽寺に祭られる。 異変(道真死後5年後)
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