太融寺(たいゆうじ)は、嵯峨源氏の祖で左大臣・大納言の源融(みなもと・の・とおる)ゆかりの寺で、大阪市北区に伽藍を構える真言宗(高野山真言宗・準別格本山)の寺院。山号は「佳木山」、院号は「宝樹院」。
古くから当寺付近の地名にもなっている。「大融寺」と誤記されることもあり、中近世の文書に多い。(ウィキペディア)
参詣日 平成24年8月8日(水) |
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太融寺 ビル街の中にあり、樹木もなく何となく寺らしいイメージが浮かばない。境内には淀君の墓がある。 弘仁12年(821年)弘法大師が嵯峨天皇の志願により創建された。 元和元年(1615年)5月、大阪城落城のとき兵火で全焼が、元禄年間に太堂、南大門など諸堂25棟が復興。その後戦災で一切が灰燼に帰したが、ご本尊千手観世音菩薩は無事難をまぬがれた。 戦後再建に着手。 |
淀君の墓が太融寺にある理由 太融寺の資料によると元和元年(1615年)5月、大阪城落城によって自刃して果てた淀君の遺骨は、淀君の崇敬が篤かった大阪城外鴨野弁天島(現在の大阪ビジネスパークの辺り)の「弁天社」の隣に一祠を作って埋められた。 これが「淀君神社」である。 明治10年(1877年)11月、城東練兵場(現大阪城公園)造成に当り、この「淀君神社」が生国魂神社に 移祠されることとなり、豊臣家に縁の深い当寺に埋め「九輪の塔(戦災により六輪)」を建て境内西北隅に祀ったとのことである。 治天皇が大阪に行幸したとき、天下を統一しながら幕府を作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。明治6年(1873)別格官幣社に列格した。明治13年(1880)、方向寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成した。 |
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