唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。(世界遺産) 多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上(がんじんだいわじょう)は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。 「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。 金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。 参詣日 平成25年7月10日(水) |
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奈良時代(8世紀後半) 寄棟造・本瓦葺 |
奈良時代(8世紀後半) 入母屋造・本瓦葺 奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである |
鎌倉時代(1240年) 楼造・入母屋造・本瓦葺 |
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鑑真和上の渡航歴をまとめますと 聖武天皇の招きに応じて来日を決意。唐政府の妨害や悪天候など12年間に5度も失敗しながら東大寺に到着。この時、鑑真は67歳。 東大寺で戒壇院を造り、聖武天皇をはじめ多くの高僧に授戒した。 1.743年 弟子僧の密告で失敗 2.743年 遭難・難破 3.744年 弟子僧の密告で失敗、栄叡が官憲に逮捕されたが釈放される 4.744年 弟子僧の密告で阻止され失敗 5.748年 台風に遭遇し海南島に漂着 6.753年 第10次遣唐使の帰国に便乗、薩摩国(現在の鹿児島県)に上陸 初回の渡航から10年目(上記の資料では12年間)にして無事に達成、渡航を阻止しようと常に鑑真和上の行動には官憲の目が光っているのにも屈せず、しかも高齢ゆえ異国の地で生涯を閉じる事が分かっているのに意志を貫か れた鑑真和上の不撓不屈の精神の凄さは想像を超えるものです。 度重なる渡航失敗で鑑真和上は両目を失明、鑑真和上に我が国への招来を熱心に嘆願した栄叡が死亡するという出来事がありながら、更なる6回目の渡航に挑戦され無事我が国に入国されました。 |
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