(とっとり雑学本舗から) 千代川は、昔は「千谷(せんたに)川」や「千体(せんたい)川」と呼ばれていたらしく、次のような言い伝えがあります。 河原(かわはら)町の小河内(おごうち)と北村の間に兵円山(ひょうえんざん)という山があり、弘法大師が巡礼の際、この山を仏の集まる神聖な場所にしようと考えます。 川に沿って1000の谷々があったので、この谷々に一体ずつ仏像を祀ろうと、大師は1000体の仏像を彫ります。 しかし、再度数え直したところ999谷しかなく、仏像を祀ることを諦め1000体の仏像を川に流してしまい、それからこの川を「千体川」と呼ぶようになったとのこと。 |
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(鳥取県伝説集から) 八頭郡河原町の小河内谷と北村谷との間に「兵円山」という大きな山があります。この山には大小無数の丘や谷があって、その数は千丘千谷にものぼるといわれています。 あるとき、弘法大師が諸国巡錫の途中、この兵円山の近くを通り、たいへん変化に富んだ山容を見ていっぺんに気に入りました。そして、弘法人師は、この見事な 山に高野山のような一大霊場をつくろうと思い立ちました。 そこで、弘法大師は、いったん高野山に帰り、 一千体の仏像を自ら刻みあげました。そして、これを兵円山に持って来て、 一千の谷のそれぞれに一体ずつ安置しよ うとしましたが、谷の数がどうしても一っ足りませんでした。 そのとき、弘法大師は、 「九百九十九谷では、 一千体の仏像を置くわけにはいかない」と言って、せっかく造った仏像を涙をのんで近くの川に流しました。 一千体の仏像がつぎつぎに流れていったので、そのときからこの川を「千体川」といい、それは後に『千代川」と書くようになりました。 ところで、弘法大師は最初、兵円山の丘や谷の数を数え、たしかに千丘千谷あると思っていました。それが一丘一谷足りなくなったにっいては、つぎのようなわけ があります。 この兵円山には、昔からアマノジャクが住んていました。弘法大師の遠大な計画を伝え聞いたそのアマノジャクは、 「おれの昔からの住みかを、霊場にされたのではかなわない……」と思って、大きなモッコに一丘一谷を入れて、それを担いで日本海に捨てに行きました。ところが、 兵円山から鳥取平野にやって来たとき、モッコの綱が突然プッツリと切れてしまい、アマノジャクは仕方なく、 一丘一谷の上をそこに捨てたまま帰りました。 この一丘一谷が、お椀を伏せたような「大路山」になりました。 一方、そんなわけで、現在、兵円山には九百九十九丘と九百九十九谷しかないようになりました。 一説に、アマノジャクが兵円山から運んで来た土は、「イバラ谷」のものであったといわれています。 |
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