赤池助左衛門伝説
(資料 「ムラのあゆみ」)

昔、「赤池」という村がありました。場所は服部村のすぐそばで、阿弥陀寺という村の西になります。
いつ頃のことか分かりませんが、高波(津波)が押し寄せて、その後、家屋敷を赤池に移したということです。阿弥陀寺のあった所に五輪さんがまつられていたそうです。賽銭 が出たこともあります。

「因伯大年表」から
楢柴竹造(重恕)の「因伯大年表」(天正9年の記)には

吉川経家、密使ヲ吉川元春二贈ル。
郷士赤池助左衛間、千代川ヲ渡ルニ頭ニ俵ヲ冠フリ水下ニ流レ、
関隙ヲ伺テ上陸シ秀吉ノ重囲ヲ脱ス。 水体ノ達人ナリ。


と記されています。

「赤池」には以前、「赤池助左衛門」という郷士が村の主として住んでいました。天正9(1581)年、羽柴秀吉の鳥取域攻めの時、この「助左衛門」も殿と籠城しました。
城中に食べる物がなくなり、大変困ったので、毛利方に助けを頼も一つとしましたが、敵の囲みが固く、道はありませんでした。その時、助左衛門」が城将の命令で、からの米俵をかぶり千代川を 流れ渡って、敵兵をだまして囲みを突破したということです。水泳の達人だったそうです。

郷士赤池助左衛門は、近辺の領主と境を争うこともしばしばであったそぅですが、少しも自領を失うことなく、また他の領地をも自分の領地とするなど、たくましく所領を確保していっ た人だったようです。

●某おじいさんの話から(昭和18年頃)●
赤池助左衛門は、敵の大軍から逃げて、現在の叶付近から千代川をむしろを被つて渡り、当部落に着いたといわれます。傷ついた助左衛門は、当部落で亡くなられたそうです。
当時の部落の人々は大変信仰が厚く、浄土真宗を信じ、大変仏を大切にしたといい、その助左衛門の墓を現在の荒神様のわきに建て、小さな祠を建てて祀つたと聞いています。 「えのき」はその当時もあり、安置場所として選ばれたそうです。
祠は老朽化し、昭和18年頃に建て替えられました。
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