美穂村の歩み
(資料 鳥取市史70年)
向国安、竹生、上味野、下味野、朝月、源太、東の諸部落を地域とする美穂地区は、鳥取市の南西6.9qの地 点に当り、東は千代川を中にして旧倉田村に対し、西は八頂山及びその一帯の山脈により東郷地区を界し、南方は大和地区でその奥が神戸につづき、北は大正地区を経 て千代水、賀露へっづくのであるが、村の中央を県道賀露河原線が通つており、その傍らを大丼手川が流れてぃる。

ここはもと「味野庄』また「味野郷」とも呼ばれていたが、明治22年町村制実施の時、はじめ「瑞穂」と命名されようとしたが、すでに同郡坂本谷が同名にしたこと を知り、「ミズホ』の「ズ」を省いて「ミホ」とし、米の産地を象徴して「美穂」と命名した。

当地区は天正年間(1580年代)玉津城落城の時、その残党がこの地方に帰農して開拓したといわれるが、竹生等には遠く今から千二百年以前に集落のあった遺籠も残つている。
かって因幡東部交通の要所とされた「渡し」は河原、赤池、秋里の三ヵ所であつたが、当地はその一っで、赤池助ェ門は当時ここの屯所の管理者でぁった。
口碑に「篠田千軒」と呼ばれてこのあたりにあった集落が漸次交通路を中心とする現在の位置に移動したといわている。

また当地には「エビ池」とか「高下島」等の字名があるのも太古この地方は沼や川であつたことの名残とも伝えられている
「郷土誌だより」へバック           バック