美穂村の歩み(その1)
(資料 鳥取市史70年)
美穂村は、古くは味野圧と呼ばれ、 後、 味野郷八ヵ村(玉津、横枕、猪子、竹生、上味野、下味野、朝月、服部)と呼ばれたが 、明治の改革により現在神戸、大和、両地区を併せて16ヵ村を以て一区劃となった。
そして区長制から戸長制となったが連合戸長役場は竹生に置かれ、明治22年町村制の実施までそのままの区劉であった。
美穂村として新しく発足してから役場を朝月に移したが、その後上味野に移転、昭和28年7月1日鳥取市に合併した。

亀井・池田の境界争い
元和3年池田光政が鳥取城主として国替されて来た翌年、向国安の開拓に着手した。
このころ千代川は二股に流れて、向国家はその中湖にあったので、当時、高草郡を領していた亀丼と、邑美郡を領していた池田両家の中洲に対する境界争いは なかなか深刻で、遂に幕府の裁定となった一幕もあって向国安は遂に池田領に属することとなった。
そのころ向国安用水組合による池田領は六十二町歩と呼ばれていた。
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