美穂村の歩み(その2)
(資料 鳥取市史70年)
交通と水路
鳥取市との交通は明治初年に至るまで大いに水路が利用され、即ち清水川より千代川に下る水路は鳥取と結ぶ唯一の交通路でもあった。
その後、明治二十八年、当村の三田七蔵は隣村の奥田柳蔵と相はかり、賀露より岩坪村に至る道路改修を企てて三十年にこの議を成立させ、三十六年竣工、 完成するに及んで、当地方としては全く劇期的な交通の発達を見るに至った。

河川改修ではすでに早くから亀井茲矩がこれに手をっけ、特に河原より千代川の水を分け、大井手を掘ったことによって当地方はもとより、下流地域の受ける灌漑用 水の恩恵は蓋し最も大きく、今日に及んでいる。
元来、当地区が未だに耕地整理がされていないのは、その必要のないほど形の整った平坦地であることで、それだけに地味は肥沃であり、従って地価も周辺最高と呼 ばれる上水田地帯が大部分をなしている。
主として米麦の産地として発達して来たがヽその生産額は周辺地区の上位を占めており、現在総戸数約400戸の内、農家はその76パーセソトであるが、人口増加 と共に、殊に山林、原野が少ないところから、自然鳥取市を中心とする勤労者が次第に増加し、農業機械化の導入を始め、新しい農業経営に全力が集中されている。
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