美穂村の歩み(その3)
(資料 鳥取市史70年)
源大の渡し
今から150年前、源太平なる人によって始められた。
この渡しは、千代川上流より32kmの下流、鳥取市元標から約4kmの地点で、今は本市となった旧気高郡猪子、岩美郡津の井駅間の重要交通路である。

昭和26年有効幅員5.5m、長さ335.5mの鉄筋大架橋が完工するまでには幾多曲折の歴史を重ねており、かって因幡東部3渡しの一つとして交通要路であった当地は、 明治22年から当時の竹生村、金谷寿三、源太村、茂田哲男両人の出資により源太の下外れに漸く小車の通れる位の小橋を架設し、渡し賃3文を徴して交通の便を図ってぃた。
しかし洪水の度毎に流出し、下流にある千代橋や安長橋にひっかかり、両橋をも共流しにするので、遂にそのころよりこの橋は壊れたま、再架設を許されなかった。

やむなく3厘の渡し賃で渡し舟を以て交通をつないでいたが、明治31年に横山豊蔵名儀に移しかえ、渡し賃も1銭に改正した。
それからまた2銭にして家廻り番と渡舟業を兼ね、大正11年、横山益蔵個人名儀として3銭に改正してから昭和の初期までこの渡舟は続けられていた。

ところでその収益はその頃の現金で年額平均430円に上り、他に米麦合せて12、3俵の多きに達したというから如何に交通が頻繁であったかが判るであろう。

昭和9年、工費3万円を以て当時山陰一といわれた長い本橋が架けられたが、同年9月8日その竣工式を挙げ、間もなく同月20日の洪水には一部を残して流失する 等全く災禍暇なしという有様であった。
しかし、この源太橋も千代川の改修と共に近代的の鉄筋架橋により、現在では従来のそれを解消してこの地方の交通に大きな役割を果している。
「郷土誌だより」へバック           バック