立見神社のいわれ
(資料 鳥取県伝説)
昔、困幡の国布施の屋形の山名弥次郎豊数は、叛臣武田高信との「多智見合戦」に敗れ、鳥取市宮谷にある立見山 の西の山すそで自害しました。
弥次郎は時に二十二歳、土地の人は哀れを催し、この場所に墓を築いて、傍らにしるしの松を二本植えて供養しました。

ところが、それから間もなく、この山のふもとを通る人に弥次郎の亡魂が祟り、村人を悩ますことがしばしば起こりました。とりわけ雨風の激しい夜は、弥次郎の霊が幽鬼と なって、付近の野山をさ迷ったといわれています。あるときは、いかめしい鎧に身を固めた侍が、自綾の鉢巻をりりしくしめ、黒くたくましい馬に乗って出て来ました。


それは間違いなく弥次郎だったといわれています。
そして、弥次郎は、上空二間ばかりの所を轡(くつばみ)の音も高らかに、1、2町ばかりを風のごとく疾走したと伝えられています。
土地の人は恐れおののき、墓の近くの小山の上に小祠を建てて弥次郎の霊を神として祀ったところ、さ迷っていた亡魂はほどなく鎮まりました。この小祠が鳥取市宮谷の 「多治見社」後の「立見神社」だといわれています。
拝殿の左側には宝筐印塔の一部が今でも玉垣に囲まれて祀ってあり、これは祭神山名弥次郎豊数のために建てたものと伝えられています。
ところが、その後、鳥取藩主池田光仲が古岡温泉に出かけての帰道、この「多治見社」の前を馬に乗って通りかかると、ご祭神の弥次郎の霊が馬を制して光仲は 一歩も先に進めませんでした。それで、光仲は仕方なく、馬から降りて社前を通過し、鳥取に帰りました。
すると、その夜、光仲の夢に弥次郎が現れ、
「われをこの地の産上神として祀れ」
と言って、すっと消えました。(左図は弥次郎の墓、右は立見神社)

このことは、やがて光仲から土地の人に伝えられ、それまで産土神であった宮谷神社を「多治見社」に合祀したと伝えられています。
そして、その後はいかなる人でも、この「多治見社」の前を馬で通るときは必ず下馬して、その昔の因幡の国主の神社に敬意ををはらったといわれています。
また、この「多治見社」のある西の山のふもとには、弥次郎の墓のほかにもいくつかの五輪の塔が建っています。これは、山名家の家老がこの場所に来て、城主弥次郎の あとを追って自害したのを祀ったものといわれています。
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