鳥取県の歴史・地勢
<歴史>
鳥取県は、神話と歴史の豊かな県である。これは、古くから大陸文化の流入があり、たたら製鉄などの高い技術に裏付けられた生産力の 充実などに恵まれていたためであろう。

大山北麓の台地、鳥取砂丘などで古い石器が発見されており、洪積世末期には人類の活躍があったものと認められる。縄文時代には、 遺跡は日本海沿岸の砂丘地や、山地・台地と平野との境界部に多数立地している。

弥生時代になると、妻木晩田をはじめ、長瀬高浜や青木などに大集落が営まれはじめ、 古墳時代になると、一段と遺跡の分布密度が高くなり、梶山古墳のように彩色壁画を持つもの、岡益の石堂、淀江の石馬など注目すべき遺跡がみられる。
淀江の上淀廃寺跡からは、 奈良の法隆寺金堂壁画に匹敵する仏教壁画が発掘され、白鳳時代にあっては、当地は大陸との交流を通じて高度な文化圏を形成していたと推論される。

奈良時代、今の鳥取市の付近には湖や沼が多く、水鳥がたくさんおり、それを捕る朝廷の鳥取部が住んでいたことからこの辺りを鳥取と呼ぶようになったと伝えられる。
そして因幡の国、伯耆の国にそれぞれ国府、国分寺が置かれ、条里制が発達した。条里制も中世になると荒廃あるいは私領化し、豪族による支配、地頭の支配を経て戦国時代に入った。

江戸時代には、因幡、伯耆の二国を合わせた鳥取藩を池田氏が治め、鳥取城を居城としていた。

明治になり、廃藩置県(明治4年)で、鳥取藩から鳥取県になったが、明治9年には島根県に合併された。 しかし、鳥取県の再置を望む声が高くなり、明治14年再び鳥取県となり現在に至っている。
なお、平成10年には、この鳥取県再置の日にちなんだ「9月12日」が「県民が、ふるさとについての理解と関心を深めると共に、ふるさとを愛する心を育て、 自身と誇りの持てる鳥取県を力を合わせて築き上げることを期する日」として「とっとり県民の日」に定められた。

<地勢>
本県は、本州の西南部、山陰中央部に位置し、北は日本海に面し、東は兵庫県、西は島根県、南は中国山地の稜線を境に岡山県、広島県と隣接しており、東西126km、南北62kmで東西方向に細長く、 面積は3,507平方kmで国土の約1%である。
地形的には、中国山地が日本海側にせり出した形で東西に横たわっているため、山陽側に比べ狭小急傾斜で山地が多い地形となっており、県西部に中国地方第一の高峰大山、東部に氷ノ山、扇ノ山等の急峻な山岳地帯が広がっている。 一方、平野は3大河川(千代川、天神川、日野川)の下流域を中心に開けているが、概して規模は小さい。

本県特有の地形である砂丘は、前述のような急傾斜地を流れる河川の流砂と日本海の海流、風浪によって形成されたもので、3大河川の河口付近を中心に発達している。

行政ブロックでは中国地方に入っているが、経済的には大阪を中心とする近畿経済圏に属しており、人的往来、物資の移出入等京阪神地方との結びつきが強い。

また、県内には、大別して3つの広域生活圏(定住圏)が形成されている。
鳥取市を中心とした東部、倉吉市を中心とした中部、米子市を中心とした西部生活圏がこれらで、それぞれの中心都市まで交通機関を利用して1時間以内の圏域で、日常的な経済、社会生活が完結出来る地域社会を形成している。
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