鳥取県の概要

鳥取県は、日本列島本島の西端に位置する中国地方の北東部に位置し、東西約120km、南北約20〜50kmと、東西にやや細長い県です。
北は日本海に面し、鳥取砂丘をはじめとする白砂青松の海岸線が続き、南には、中国地方の最高峰・大山をはじめ、中国山地の山々が連なっています。山地の多い地形ながら、 三つの河川の流域に平野が形成され、それぞれ鳥取市、倉吉市、米子市が流域の中心都市として発達しています。
気候は比較的で温暖で、春から秋は好天が多く、冬には降雪もあるなど、四季の移り変わりは鮮やかです。また、台風などの自然災害が少なく、気候条件に恵まれています。

鳥取の呼び名
日本最初の歴史書「古事記」には、大和朝廷が諸国に鳥を捕らえさせ、これを税として納めるように命じていたという一節があります。そして、当時、鳥取平野には、沼や、沢の多い湿地帯で、水辺に集まる鳥などを捕らえて暮らす狩猟民族が住んでいました。
これらの人々が、大和に政権ができてからその支配体系に組み込まれ、「鳥取部」として従属するようになり、そこからこの地の呼び名「鳥取県」が生まれたとされています。

全国47都道府県中、面積は41番目で、人口は最も少ない。県庁所在地は県東部の鳥取市。

歴史・地勢   国指定文化財   県指定文化財   郷土芸能

神社・仏閣   庭 園     山 岳     渓谷・瀑布

温 泉


面積 3,507.28ku 県の木 ダイセンキャラボク
人口密度 165人/ku 県の鳥 オシドリ
総人口 578,604人(推計 2013年5月1日) 県の花 二十世紀の花
隣接県 兵庫・岡山・島根・広島県 県の魚 ヒラメ
 
 
 
上記の「鳥取県の概要」説明文を少し詳しく)

鳥取県は、日本列島本島の西端に位置する中国地方の北東部に位置し、東西にやや細長い県です。
北は日本海に面し、鳥取砂丘をはじめとする 白砂青松の海岸線が続き、南には、中国地方の最高峰・大山をはじめ、中国山地の山々が連なっています。三つの河川の流域に平野が形成され、 それぞれ鳥取市、倉吉市、米子市が流域の中心都市として発達しています。
気候は比較的温暖で、春から秋は好天が多く、冬には降雪もあるなど、 自然災害が少なく、気候条件に恵まれています。

古代の鳥取県は、砂丘地帯や大山山麓などに縄文遺跡や弥生遺跡が分布し、古墳も数多く発見されています。また、銅鐸と銅剣がともに出土して おり、これは、古くから大陸文化の流入があり、たたら製鉄などの高い技術に裏付けられた生産力の充実などに恵まれていたためと思われます。

大化の改新後は、因幡・伯耆の二国が置かれ、万葉歌人・大伴家持も因幡国司に任ぜられています。
奈良時代中期には東大寺領高庭庄が設けられたのをはじめとして、平安時代 になると、荘園が各地に設けられました。
平安時代末の源平争乱期には、 伯耆国を中心に在地武士の間に激戦があり、14世紀の建武の新政の際には、伯耆の豪族名和長年が活躍しました。
後醍醐天皇が隠岐島࠮ に流された時に味方した話は有名です。

室町時代になると、山名氏が因幡・伯耆両国を守護として支配しました。応仁の乱後は、尼子氏や毛利氏などの支配を経て、豊臣秀吉の支配下におかれました。

関が原の戦の後、1632年には池田光仲がほぼ鳥取県全体を支配するようになり、 以後、鳥取藩は池田氏の手によって治められました。

明治になって、元の藩主池田慶徳が藩知事となり、明治4年因幡・伯耆両国と隠岐国が鳥取県となりました。
その後、明治9年には、いったん島根県に併合されましたが、 地元の士族を中心とした熱心な再置運動が実り、明治14年には、隠岐島を島根県に残して再び鳥取県として分離され現在に至っています。

日本最初の歴史書「古事記」には、大和朝廷が諸国に鳥を捕らえさせ、これを税として納めるように命じていたという一節があります。
当時、 鳥取平野は、沼や沢の多い湿地帯で、水辺に集まる鳥などを捕らえて暮らす狩猟民族が住んでおり、これらの人々が、大和政権ができてからその 支配体系に組み込まれ、「鳥取部」として従属。そこからこの地の呼び名「鳥取県」が生まれたとされています。

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