亀井茲矩(かめい これのり)
 
亀井茲矩は安土桃山(戦国)時代から江戸時代にかけて生きた戦国武将で、尼子氏の家臣・湯永綱の長男として 弘治3年(1557)、出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉湯町)に生まれる。

尼子氏が毛利元就によって滅ぼされると流浪の身となった。流浪時代については定かでないところも多いtが、尼子氏の残党である尼子勝久と山中幸盛に出会ったのも 永禄11年(1568)頃と推察される。
また年代は定かではないが、幸盛との緊密な関係から、幸盛の養女を娶り、亀井姓を名乗ってその名跡を継いだ。    (画像は亀井茲矩の墓)

織田信長の支援を受け出雲・尼子氏再興を図る山中幸盛の下、安芸・毛利氏と戦う。その後は羽柴秀吉に仕え鳥取城攻め等に活躍する。
天正6年(1578年)に尼子勝久らが上月城で孤立し、勝久は自刃し幸盛も降伏後に処刑されたが、茲矩は羽柴軍と同行していたため難を逃れた。以降も羽柴軍に属し、天正9年(1581 )には吉川経家が守る鳥取城攻略で戦功を挙げたため、因幡国鹿野城主に任命され、1万3,500石を領した。(現在の鳥取市鹿野町)

秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、功績によって因幡高草郡2万4,200石を加増され、3万8,000石の鹿野藩初代藩主となる。

農業開発、銀山開発、用水路開設などの行政面に手腕を振るう一方で、幕府の朱印状を得てシャムと交易を行なう。

茲矩は新田開発のほか治水事業にも積極的で、 気多郡の日光池や高草郡の湖山池の干拓による新田開発や大井手用水の開削を早くから取り組んだ。大井手用水は7年の 歳月をかけて1609年(慶長14年)に完成する、桑・楮などの樹林育成に努め、農業の振興を図った。    (画像は鹿野城天守台)

慶長17年(1612年)死去した。
嫡子・政矩の代に石見国津和野4万3,000石に加増転封されている。
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