絵画への想いを顧みて
 
私は昭和11年(1936)に福井市に生まれ高校卒業まで福井市で育ちました。
私の生家の家業は家具屋(タンス屋)で、沢山の職人さんがいました。そんな環境の中、物心 が付いた頃にはノミ、カンナ、カナヅチ、ノコギリを巧みに使いこなしておりました。
職人さんからは「危ない」「アブナイ」と言われながら育ちました。

私が油絵を描きだしたのは中学1年生の夏(昭和24年(1949))でした。水彩絵具に種油を混ぜて板に描いていたら、父が福井駅前の「画材屋」に連れて行ってくれて油絵 の具一式を購入してくれたことに始まります。今でもその際に購入した「パレットナイフは大事に持っています。

父は京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)卒業しており、私が大学進学に芸大を受けようと石膏デッサンに勤しんでいた夏頃、「趣味を生業にしたらあかん。 逃げ場がないのでダメ」「田舎で自惚れていても上には上が居るものだ」と言われました。
これは父が京都で得た実感なのでしょう。

美大をあきらめ、新制の工業大学に進み、専攻は電気工学でしたが、数学、固体物理学、原子力、量子力学、放射線物理学、アンテナ、放射線測定器の作成など、当時としての先端の科目の勉強をし、卒業研究は「ロッセル塩に対する放射線の影響」という課題でした。
この専攻科目のお陰か昭和34年(1959)に放射線関係の会社に就職が出来ました。東海村(日本原子量研究所設置)が出来たのは昭和31年(1960)です。
大学では美術部に入ったものの、親父の言うことを聞き一枚も絵を描きませんでした。そのため大学時代の絵は一枚もありません。

それ以来40歳になるまで筆を折っていました。

平成23年(2011)、昔勤めていた所の先輩の年賀状に「私の絵を見たい、じっくり鑑賞したいから毎日1枚ずつ送ってくれ」との依頼がありました。
現在手元には、中学高校時代の数枚の写真と、社会人になってからのスケッチブックが数枚、40歳から数年間(昭和54年(1979)〜61年(1986))本格的に取り組み「上野の森」に展示することができた8枚、その位の絵画しかありません。

高校時代の作品は出世したら価値が出るぞと友人に遣ってしまい、手元には中学時代の図画の間での水彩画1枚、高校時代の油絵1枚の計2枚の写真しかありません。
しかも美大受験を夢見た高校時代は相当な枚数を描きましたが、40歳まで筆を折っていました。

年賀状で依頼を受けてからこの数少ない作品をスキャナーでコピーをしコンピュータに存して、真剣に描いたもの数点、ちょろちょろ描いたもの、駄作の数点を1枚ずつ送ることが出来ました。
この 「絵画への想いを顧みて」 はそれらを集大成したものです。

(1)「中学時代の作品」
  まずは中学時代の作品をご鑑賞下さい。
中学時代の作品
絵画1:中学作品 水彩画
 
 
(2)「高校時代の作品」
 写真帳に残っていた高校時代の油絵は1点しかありません。
高校時代に描いた絵や木炭画は、すべて高校の友人に出世したら価値が出るぞと遣ってしまい残っていません。ご鑑賞ください
高校3年 校内文化祭出品
絵画2:高校3年 校内文化祭出品
 
 この文化祭の作品はニコルソン風です。高校時代に外国の印象派やキュービズムの展覧会が大阪天王寺美術館や京都美術館で頻繁に開催されよく出かけていました。

高校2年の時、ブラックをまねてブラックらしい絵を数点描きました。また同時にニコルソン(ブラックと同時代のイギリスの画家)もまねて描いています。 またミロも大好きでミロ風を数点描きました。
ルオーやピカソ、マチス、ダリ、レジエは、私の性分に合わないらしくまねが出来ませんでした。 どうも黒い幅広い線で輪郭を取るのが苦手だと思い込んでしまったのか、ルオーは大好きなのにあの黒い線は描けませんでした。 憧れているのに出来ないのは歯がゆいものです。
ゼザンヌは基本ですから陰の練習にはもってこいです。
 
 
(3)「デッサン(1967)長男(赤ん坊)」
 筆を折ってから12年後に描いた赤ん坊のスケッチです。
出産のために里帰りしていた妻が赤ん坊(長男 YY)を抱えて大阪池田に帰ってきました。
筆を折ってから初めてスケッチブックに長男をスケッチしました。 ちょろちょろ描きです。
(1967.1.14 これ1枚しか描いていません。)
デッサン(1967)長男(赤ん坊)
絵画3:デッサン(1967)長男(赤ん坊)
 
 この息子が47歳?になり先日母にアバウト50歳になったとの電話をよこしてきました。
彼等がこれからの20年間日本を背負わねばなりません。人生は総てが順送りですから。
しつかりと運営してほしいです。老兵は消え去るのみです
 
 
(4)「デッサン(1972)百合の花」
 赤ん坊の絵から5年後(1972)に久しぶりに「百合の花」を描きました。
ちょろちょろ描きですが、よく描けていると思います。ご鑑賞ください。
百合の花
絵画4:デッサン(1972)百合の花
 
 
(5)「デッサン(1976)おもちゃ」
 長男が1年生になった時に「絵の描き方」を教えた際のスケッチです。息子は理解できたかどうか分かりませんがかなり真剣に描きました。 まだ描き込みが足りませんが。出来栄えは「車の表現」に満足できていませんが、全体としてはまあまあの出来です。
「息子が赤ん坊のときに使っていたアヒルのおもちゃのデッサン」。
現役時代に技術者として作成したマニュアルのA4の用紙に挿絵や文章の配置が無意識の内にバランスがとれたものになっています。

ある時、部下から「YMさんはなんでそんなに上手く収まるのですか」と言われました。
時々これは生まれつき持っている能力、才能だな?と感じたことが何度もあり、絵心があることを親父に感謝をしています。
鑑賞ください。
デッサン(1976)おもちゃ
絵画5:デッサン(1976)おもちゃ
 
 
(6)「水彩画(1978) ウイスキー瓶」
 久しぶりの水彩画「ウイスキー瓶」を描きました。ちょろちょろ描きの水彩画です。
中学時代のように腰の入った絵ではありません。ご鑑賞ください。
デッサン(1978) ウイスキー瓶」
絵画6:デッサン(1978)ウィスキー瓶
 
 
(7)「デッサン(1980) シクラメン」
 シクラメンが満開だったのでスケッチしました。ご鑑賞ください。
デッサン(1980) シクラメン
絵画7:デッサン(1980)シクラメン
 
 
(8)「上野の森 昭和54年(1979)初めて出品作品(下絵)」
 私が丁度40歳になった時は父に「趣味を生業にしたらダメ」と言われてから20年目、筆を折ってきましたが「描いても良いか」と尋ねたところ、もう生業にしないだろうと思ったのか、こんどは「大いにやれ」と励ましてくれました。

そこで、どうせやるなら目標を持たねば長続きはしない、寝転んでしまうと思い「蒼騎会」という絵画の団体に応募することに決めました。
手始めに「お寺と苔」を題材にしようと京都山科の「醍醐寺三宝院」、西京区の「苔寺」、左京区の「円通寺」「南禅寺方丈の庭」などのお庭の苔の写生に出かけました。そのスケッチを基に「醍醐寺三宝院」と「苔寺」を60号のキャンパス2枚に描き出品しました。 見事入選することができました。

年齢44歳「働き盛り」会社での仕事も忙しく、毎日帰ってからと、毎週土日に描きました。
家中が油臭く家族には不評でしたが、非常に充実した日々でした。
11月に入ってから描き始めたので搬入日までに1ヶ月しかなく、絵の具が中々乾かない中苦労して12月1日の搬入にやっと間に合った次第です。 20年振りに描いたにしては、まあまあの出来でした。(自己満足)。
これは「醍醐寺三宝院」のスケッチと下絵です。
醍醐寺お庭三蔵院下絵
絵画8:醍醐寺お庭三蔵院下絵
 
 
(9)「上野の森 昭和54年(1979)初めて出品作品」
 これは「上野の森 昭和54年(1979)」に初めて出展した作品です。
まずはご鑑賞ください。下絵も見比べて苦労の跡を見てください。
初入選   作品と福田邸の応接間
絵画9:初入選   絵画10:作品と下絵とFT邸の応接間
 
1)「京都山科 醍醐寺三宝院 苔庭 60号F」杉苔が蜜集した静かなお庭でした。
本堂わきにある「酒づくし」のお庭。苔と白砂だけで瓢箪、盃、酒を表しているとか。お庭の「瓢箪と盃と杉苔」をどう表現するか、円を主体にしてデザイン抽象化して表現しました。

静穏の中から白砂に生えている苔の自然美、年輪さを描いたつもりです。「瓢箪と盃と杉苔とお酒」が表現されているか。

2)「京都 西芳寺(苔寺) 60号P」緑の絨毯 苔が蜜集したお庭でした。
ほぼ写実、緑一色、お池に写る苔にも苦労しました。「静穏さ」は表現できたか、この絵を送ることを提案された方から「醍醐寺と苔寺」の絵について下記のような質問があり、 次のように説明をしました。

--------この作品を見た方から次の質問を頂きました---------
どのようにして円を使った構図を思いつかれたのですか?
との質問がありました。
 
「醍醐寺三宝院 苔庭 60号F」
醍醐寺三宝院 デフォルメ抽象画
絵画11:醍醐寺三宝院 デフォルメ抽象画
 
 お庭は6畳の正方形で、一方のみが開けた空間に白砂が敷かれ、円い「瓢箪と盃と杉苔」が配置された向こうの小高い山に苔と刈入れられた小木と立木が配置されています。
この空間を表現するには直線は立木とお庭の正方形右端の直線だけとして、広がりを求めるために大小の円の空間を配置して全体の構図のバランスを取りました。
 
京都 西芳寺(苔寺) 60号P
苔寺(苔の絨毯)ほぼ写実
絵画12:苔寺(苔の絨毯)ほぼ写実
 
--------この作品を見た方から次のことを教えて頂きました---------
 改めてYMさんの絵を見ると、中央の苔の部分と上部の奥の林部分、手前の池に映る林の部分と縦の構図の中に、過不足なく西芳寺の景色が収められ、物音一つしない静謐な感じが見事 に出てますね。直立する何本かの木が目を上部に誘うと同時に画面に緊張感を与えているように思えます。巧みな混色が静謐さを呼んでいるのでしょうか?
お褒めのお言葉、有り難うございます。

確かに3等分して上の方に木で縦の線を作り遠近法で奥行きを出しています。 そして岩の白は画面に色の変化をだし、キャンパスの四角の中でのバランスをとって飛び出さないように考慮して、柔らかくすると言った計算もあります。
奥行きのある苔の絨毯をどう表現するかでした。キャンパスをPタイプにしたのも計算です。
もしFタイプだと横に広がった締まりのない絵になったと思います。
しかしこれらの計算のすべては祖先から頂いた私の感性だけです。
特別にああだ、こうだと数学のような考察はしていません。
こうすれば善いだろう、効果があるだろう、との試行錯誤のみです。
これも私の感性です。
ご参考になれば幸いです。
 
 
(10)「上野の森 昭和55年(1980) 雲と太陽(朝昼夕)出品下絵」>
 これは「上野の森」に展示した100号の油絵の下絵です。題材は「雲と太陽」で「朝の太陽」「昼の太陽」「夕の太陽」です。 誰でもが生まれて来た時から毎日見て親しんで来た太陽を題材にしました。 人それぞれの思いがあると思います。

私は福井市に生まれ、朝日は東の白山連邦から昇り夕日は西の300メートルの萬松山(通称 大安寺の山)に沈み、夏休みには日本海の三国の砂浜で沈む丸く大きい赤い太陽を見て育ちました。 大学に入り四国の室戸岬で太平洋に沈む太陽を見て、その時初めて太陽が海から出て海に沈む事を知り感激しました。
太陽の朝・昼・夕は誰でもが脳髄に焼き付いていると思います。 スケッチはぜずにイメージで「雲と朝日・昼日・夕日」のグランドデザインをいろいろと模索しました。 その模索の構図をご覧ください。
そして上野の森に出品した絵を「どのような太陽か」想像してください。
上野の森(雲と太陽 朝昼夕)下絵
絵画13:上野の森(雲と太陽 朝昼夕)下絵
 
(11)「上野の森 昭和55年(1980) 雲と太陽(朝昼夕)出品作品」
 これは「上野の森 昭和55年(1980)」に出展した作品です。
出品2回目で早々と「会員推挙」されました。下絵と見比べてご覧ください。
会員推挙と展示模様
絵画14:会員推挙と展示模様
 
 太陽は誰でもが生まれて来た時から毎日見て親しんで来ました。
そのため写生はしていません。
イメージを基に作品を作りました。
雲と太陽展示模様   上野の森(雲と太陽 朝昼夕)下絵.(13と同じ)
絵画15:雲と太陽展示模様   絵画16:上野の森(雲と太陽 朝昼夕)下絵.(13と同じ)
 
1)「雲と太陽(御光) 100号F」
雲と太陽(御光)
絵画17:雲と太陽(御光).(株)SXD会議室
 
   この作品を構想するにあたり、朝早く起き「日の出」を観察しました。この観察で初めて太陽の出る前に東の空が紫色になる光景を見て感動しました。 夜明けに紫のひと時があることを初めて知りました。
その光景をどのように表現するか、太陽が登るイメージをどのように表現するか。
いろいろと試行錯誤しました。

太陽が昇る光景を「逆三角形」を用いて広がりを表現しました。下絵の中にその構図の原型があります。 この作品が「会員推挙」になったようです。作品の下に「会員推挙」の短冊があり、展示場の入り口に「受賞者一覧」があり、その中に「YM」の名前があり、 「会員推挙」の賞状を頂きました。

--------この作品を見た方から次のことを教えて頂きました------------
 朝日の出る直前に空が紫色になるとの表現を見て、枕草子の書き出しを思い出しました。YMさん同様、清少納言も凄い観察力を持っていたのだと改めて感心した次第です。
春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる
 
2)「雲と太陽(瑞光) 100号F」」
雲と太陽(瑞光) TTメディカル本社玄関
絵画18:雲と太陽(瑞光) TTメディカル本社玄関
 
この作品を構想するにあたり正午の空を仰ぎ「眩しい」目がチカチカする光、 眉毛の隙間から入る放射状に発散する光を表現しました。

3)「雲と太陽(ゆうばゆる) 100号F」
雲と太陽(ゆうばる) м実家 応接室
絵画19:雲と太陽(ゆうばる) м実家 応接室
 
  子供時代に見た夕焼けの光景を頭に描き、その光景をどのように表現するか、太陽が沈むイメージをどのように表現するか、いろいろと試行錯誤をしました。
太陽が沈む光景を底辺がある「三角形」を用いて表現しました。
下絵の中にその構図の原型があります。ご鑑賞ください。
下書きも見比べて苦労の跡を見てください。 多分イメージされたものと異なっていると思います。

--------この作品に対して先輩から下記のようなご評価を頂きました---------
今度の作品の方が前回の作品より好きですね。  どんな工夫をされたか・・・よく分かりまし
たが、素人鑑賞者にとっては作品そのものが素直に訴えて来るものを大事にしたいですね。
画面全体の色の交響曲をそのまま楽しみたいという・・・。 3枚の絵・・・どれもが色彩的に
「いい感じ!」 つまり、心地よい・・・これって大切でしょ!?
 
 
(12)「上野の森 昭和56年(1981) 春風華幔 出品作品」
 これは「上野の森 昭和56年(1981)」に出展した作品です。
30P号横三枚 桜五本の満開を画く(試作)   春風華幔
絵画20:春風華幔雲   絵画21:春爛漫 下絵
 
 この年は勤め先の業務が非常に繁忙を極め、「Xoxpxon X00」だ「Xoxpxon Z00」だ「CT」だ「MRIとは」で技師会、大学病院、病院、支店など講演だ、MRIの学会だ 「ガンマーカメラのデータ処理」だ「そのソフト開発」だ「等々」、ユーザーや工場などへと[技術本部]映像技術部次長として全国を飛び回り非常に忙しい日々でした。
また、出展2回目で「会員推挙」されてしまい、一応「セミプロ」と認められてしまい「やる気」が薄れてしまった。 と言う口実のもと、下書きの最初にあるような「9枚(3×3)」で曼荼羅の様な絵を描こうとしたが全く具体的な構想が纏まりませんでした。

昨年は通勤や新幹線の中でポンチ絵などを描いていたのですが、この年は全く構想すら湧いてきませんでした。
出品間近の10月に入り30号Pを横に並べた画板にして構図を練りました。
サクラ並木を描こうと構想しましたが、「サクラ」は子供時代に経験しているものの遠目での小さなサクラは簡単ですが、近目での1本だけを描くとか、満開のサクラを描くことは非常に難しいことを経験しています。いわゆる絵にならない。

日本画の場合は1枚1枚の花びらを描いて逃げています。油絵ではこの手法では絵にならないのではないか? トライしていませんが想像で。
そこで、満開の雰囲気を出すために抽象化して描くことにしました。
一応その雰囲気は出せて横並びを一枚の画領域とした画板として纏まり、1枚1枚に分けても1枚の絵として成り立つことが出来ました。
しかし「蒼騎会」の先生方々には不評でした。
また展示場の写真を見て頂くと分かりますように広い展示場では「貧弱」に見える絵画です。
60号や80号、100号だったら迫力があり先生達の評価も違ったかも!駄作でした。

--------この作品を見た方から下記のようなご評価を頂きました-----------
今度の作品の方が前回の作品より好きですね。今回の作品は私の感覚にぴったりきます。
なんでしょうかね。ファイルをクリックして画像が出た瞬間にビビっときました。
題名とも見事に一致しています。題名が無くても判りますね。
春のやわらかな風を目で感じます。
 
 
(13)「上野の森 昭和61年(1986) 林に漏れる輝き 出品作品」
 これは「上野の森 昭和61年(1986)」に出展した作品です。まずはご覧ください。
上野の森(1986) 林に漏れる輝き
絵画22:上野の森(1986) 林に漏れる輝き
 
1)「林に差込む光(EMANATE) 80号F
林に差込む光 EMANATE
絵画23:林に差込む光 EMANATE
 
2)「林に差込む光(SHINE) 80号F
林に差込む光SHINE
絵画24:林に差込む光SHINE
 
  この絵は生い茂った林の中に差し込む太陽の光の発散の面白さを描いたものです。
うまく表現できたかどうか、あまり熱が入った作品ではありません。駄作です。
この絵を最後に「蒼騎会」なる団体を退会しました。
絵の道の方々からは勿体ないと慰留をされましたが、今後出品を続ける自信がありません。
作品の作成どころではなかったことが大きな理由です。最後の油絵です。
この作品は昭和61年(1986)です。 前回の作品から6年経っています。前回は昭和56年(1981)です。

昭和57年4月(1982)にSXDに移り、メンテナンス体制を作るためにSXDサービス(社)を昭和58年(1983)設立しましたが、昭和60年SXDがTTの傘下に入ることになりました。
昭和61年3月に社長を辞任するまでの3年間SXDサービス(社)の社長業に専念しました。
また辞任にともない(株)MMMという会社を設立しました。 社長業に専念したために、それから今日まで全く絵は1枚も描いておりませんでした。
今年平成22年3月をもって会社を3男に後を託す事にしました。

現在は老後何をしようかと思い悩んでいます。
昨年9月に息子達が引退祝いをしてくれて以来公民館の絵画や彫刻、習字、仏像彫刻教室などを見学しましたがいずれもピッタリきません。
我流とはいえ、名のあまり通っていない絵画会とは思いますが全国に200数名の会員数を持つ団体に一応「会員推挙」され、「美術年鑑」に名前を載せていただき、 セミプロの世界に通用したと自己満足している者として「同好会」的な処で満足できるかどうか、長続きするかどうか自信が持てません。自慢しているように見えるかもしれません。
 
 
(14)「商品:画像ファイリングシステム・コンセプト」
  これは平成6年(1994)から私がライフワークとして販売・開発してきた「画像ファイリングシステムのコンセプト (商品のロゴ) 」を画像編集ソフトウェアAdobe Photoshopを用いて作成しました。
蒼騎会」を退会してから初めて絵らしい絵を精魂を込めて描いた絵です。
まずはご鑑賞ください。
画像ファイリングシステム
絵画25:画像ファイリングシステム コンセプト
 
  この絵は二次元の画面上でしか存在出来ない立体構造です。
中央をご覧ください。ダンベルの両方の球に注目ください。六つのコンセプトを面白く表現するにはと考え、このような構築物にすれば大きくコンセプトを纏めて表現できると思い付きました。

平成6年から商品名は「XXXXXVieW」、「BBBBBVieW」、「PPPPPVieW」と名称は変遷しましたが基本的には同じロゴを用いて来ました。 「二次元の画面上でしか存在出来ない立体構造」の絵は「だまし絵」とも呼ばれています。 だまし絵の元祖は「エッシャー」という名前の画家です。昔20年程前に「目の錯覚」に関する何かの本で「<ーーー>」「>ーーー<」の使い方で間の棒が大きき見えたり小さく見えたりする目の錯覚の説明の中に「だまし絵」が載っていました。
その中で次のようなだまし絵があり非常に強く脳髄に刻み込まれました。
絵画26:だまし絵の一例
 
  商品名「PPPPPVieW」のコンセプトは、この記憶からの発想でした。「エッシャー」の経歴をネットで調べると「理系」のDNAを持った家系だそうです。 ひょっとすると私に向いた世界かも知れません。「雲と太陽」の太陽が昇る沈むイメージを表現しようとした構図なども一種の 「だまし絵:目の錯覚」です。
私の晩年の絵の追求は「だまし絵」で表現する抽象画で行きますか?。
「だまし絵」の世界は理系の頭には向いているのかも分かりません。 エッシャーは絵は素晴らしかったが成績はあまり良くなく、2年生を2回やったとか。 学校成績はダメだった。
父は土木技師、兄は結晶学者ですね。私も追求して来た世界ですね。面白そうですね。
 
 
(15)「賀状版画 彫り続けて50年傑作選集」
 彫り続けて来た「賀状版画」が50枚、その集大成として「傑作選集」を作成し平成23年(2011)の「最後の賀状版画」としてお届けしました。 ご覧ください。
最後の賀状版画
絵画27:最後の賀状版画
 
 
・終わりにあたり感謝」

非常に少ない絵画の点数で「絵画への想い」とは大げさですが、お陰様で YMの「絵画への想いを顧みて」を纏めることができました。 人生の晩年(75才)を迎えた私に、このようなチャンスを頂きました先輩「NKさま」に感謝をいたします。
また少ないながらも絵を描くことにご協力いただきました小学、中学、高校時代の絵の先生方々、憧れだった「上野の森」に展示させて頂きました「蒼騎会」の先生方々、今は社名が無くなりましたがTTメディカル(株)、SXD(株)の方々、 画像ファイリングシステム「PPPPPVieW」の開発でお世話になった(株)SSのAKさまに感謝を申し上げます。
「趣味を生業にしたらあかん。逃げ場がないのでダメ」「田舎で自惚れていても上には上が居るものだ」と技術者の道に導いてくれた父に感謝。

最後に私にこのような感性を授けてくださいました父母に感謝を申しあげます。
有り難うございました。

終わり

平成23年2月1日



バック
 
山・旅紀行へ