平成26年3月12日(水) 滋賀県大津市の明智光秀ゆかりの地を訪ねた。 西教寺は、比叡山焼き討ちで焼失した後、光秀が復興に手を尽くしことから明智家の墓がある。 坂本城址 元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった明智光秀に対して織田信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城(滋賀県大津市下阪本3丁目の坂本城址公園内)を築城させた。 比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われている。 道筋に、坂本城跡の碑があります。坂本城は、現在見るべき遺構がほとんど残っていない。 |
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明智光秀 宣教師 フロイス「日本史」の中から明智光秀のついて一部抜粋 「信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。 彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の屋敷の一貴人兵部大輔と称する人に奉仕していたのであるが、その才略、 深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。 殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが(受けている)寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。 彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。 また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。 彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、 彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを 目撃して、自らは(そうではないと装う)必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。 また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついには、このような術策と 表面だけの繕いにより、あまり謀略(という手段を弄すること)に精通してはいない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい。 信長は彼を丹波、丹後二カ国の王に取り立て、彼(信長)がすでに破壊した比叡山の大学(延暦寺)の全収入--それは(別の)国の半ば以上の収入に相当した--とともに彼に与えるに至った。 そして明智は、都から四レーグアほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五レーグアもあるかの大湖(琵琶湖)の辺りにある坂本と呼ばれる 地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、 この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。・・・」 |
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明智光秀について 現在の岐阜県可児(かに)出身、明智城主の子。明智氏は美濃守護・土岐(とき)氏の分家。はじめは斎藤道三に仕えた。1556年(28歳)、 道三とその子・斎藤義龍の争いが勃発した際に、道三についたことから明智城を義龍に攻撃され、一族の多くが討死した。光秀は明智家再興を 胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたという。 当時の武将は側室を複数持つのが普通だった時代に(家康は21人)、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。 やがて光秀は鉄砲の射撃技術をかわれて越前の朝倉義景に召抱えられた。1563年(35歳)。 1566年(38歳)、13代将軍足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(29歳)が朝倉氏を頼ってくると、光秀は義昭の側近・ 細川藤孝と意気投合し、藤孝を通して義昭も光秀を知ることとなる。 足利義昭は幕府の復興を願っていたが、朝倉義景には天下を取る器量も野心もなかったことから、義昭は朝倉氏に見切りをつけて、 桶狭間の戦以来、勢いに乗っている織田信長(33歳)を頼ることにした。 1567年、義昭に見込まれた光秀は付き従う形で朝倉家を去り、両者の仲介者として信長の家臣となる。 光秀は、信長の家臣であり、室町幕府の幕臣でもあるという、実に特殊な環境に身を置くことになった。 1571年7月、光秀は信長から滋賀郡を与えられ、琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城の築城を開始する (信長は築城費に黄金千両を与える)。これは織田家にとって大事件だった。 光秀は初めて自分の城を持っただけではない。織田に来て僅か4年の彼が、家臣団の中で初めて一国一城の武将となったのだ( NO.2の秀吉でさえ長浜城を持つのは3年後)。 これ以降は省略。 坂本城は琵琶湖の水を引き入れた美城で、宣教師ルイス・フロイスは後に「信長の安土城の次に天下に知られた名城が明智の城だった」 と絶賛している。坂本城は琵琶湖の水を引き入れた美城で、宣教師ルイス・フロイスは後に「信長の安土城の次に天下に知られた名城が 明智の城だった」と絶賛している。 |
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滋賀院(滋賀門院) 滋賀県大津市坂本にある天台宗の寺院で比叡山延暦寺の本坊(総里坊)である。 1615年(元和元年)江戸幕府に仕え「黒衣の宰相」とも称された天台宗の僧天海が、後陽成天皇から京都の北白川にあった法勝寺(ほうしょうじ)を下賜されたもの。 江戸時代初期に現在地に移し、のち後水尾(ごみずのお)上皇から滋賀院の号を賜わった。 江戸時代末まで天台座主(ざす)となった皇族代々の居所であったため高い格式を誇り、滋賀院門跡と呼ばれ、延暦寺の本坊らしい堂々とした外構えの寺院。 |
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日吉大社 |
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西教寺 滋賀県大津市坂本にある仏教寺院。天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山である。 聖徳太子により創建され真盛が再興した寺院。天台真盛宗総本山。 戒律・念仏の道場として、1日も絶えることなく念仏が唱えられています。 比叡山焼き討ちで焼失した後明智光秀が復興したことから、明智一族の墓が残っています。 |
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