伊弉諾神宮いざなぎじんぐう 高田屋嘉衛記念館 あわじ花さじき

平成24年5月9日(水)
伊弉諾神宮


高田屋嘉兵(明和6年1月1日(1769年2月7日) - 文政10年4月5日(1827年4月30日))は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。

あわじ花さじきは明石海峡大橋の開通にあわせて、平成10年4月4日にオープンしました。 北淡路丘陵地域にある展望の優れた農地を活用して、海と空が調和する広大な 花風景が広がっています。

 
高田屋嘉衛記念館

淡路島(現在の兵庫県洲本市五色町)の農民の子として生まれる。漁業に従事し、18歳で兵庫へ出て廻船業者を志し、淡路と大阪とを往復する瓦船に乗る。寛政2年(1790年)に樽廻船の水主から、船頭となる。

紀州での鰹漁や、和泉屋伊兵衛のもとで船頭となり酒田へ航海して資金を貯める。
寛政7年には、兵庫の北風家の助けを得て、庄内で1700石積の辰悦丸を建造し本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの江戸幕府役人と接触し、 信を得て蝦夷地交易を許可される。

幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となる。また、函館の北洋漁業の基を築いた功労者である。近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路開拓を行った。
択捉島は鱒・鮭が豊富で、嘉兵衛は17ヶ所の漁場を開き、 島に原住していたアイヌの民を雇って漁法を教え、彼らの生活向上に資した。

享和元年(1801年)、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。嘉兵衛は漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した。

文化3年(1806年)、箱館の大火で町の大半が焼失した時、高田屋は被災者の救済活動と復興事業を率先して行なっていった。市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業を実施した。造船所も建設し、 兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ、官船はじめ多くの船を建造していった。

文化9年(1812年)幕府によるロシア船ディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン幽囚の報復として、嘉兵衛は国後島で副艦長のリコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、 翌年帰国。
帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無いことを納得させ、人質解放に尽力した。また、幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられた。文政元年(1818年)に隠居し、文政10年(1827年)に59歳で死去。

なお、嘉兵衛の死から6年後の天保4年(1833年)に、高田屋を継いだ弟の金兵衛が幕府から密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落した
 
高田屋嘉衛記念館
 
あわじ花さじき

淡路島北部の丘陵地域の頂上部に位置し、大阪湾に面したなだらかな高原に季節の花々が咲く、明石海峡・大阪湾を背景に、約16ヘクタールの広大な花のパノラマ。
 
 
 
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