摩尼寺に関する伝説

湖山長者のうぶみ長者が建てたとされている(その1)。


毎日何不自由無く暮らしていた長者夫婦であったが、子供が無く豊かな中にも寂しさがあった。 なんとかして子供が欲しいと、円護寺の大日如来に願をかけた。

やがて、満願の日の朝、不思議な夢をみて、奥さんは身ごもり、月満ちて女の子が生まれた。 長者夫婦はたいへん喜び、大切に育てた。
ところが、8歳になったある日の事、突然娘の姿が見えなくなった。 夫婦は八方手を尽くし探したが見つからなかった。

生きる望みを失い、すっかり疲れきった夫婦は、高い山に上り何気なく海を見ていると、にわかに空が曇り、波が立ち、竜神が海の中から空へと舞い上がった。 姿こそ竜神だが、よく見ると我が子ではないか。 あっけにとられて見ていると、空の彼方から金色の光が竜女を包み、ささげるように空に舞い上がり、 帝釈天の姿に変わり、大きな岩の降り立った。

自分たちの育てた子供が帝釈天の仮の姿であった事を知った夫婦は手を取り合い、 喜んでいると、帝釈天は元の可愛い娘の姿に戻り、穏やかな声で言った。 「私の本当の姿は帝釈天なのです。今迄の8年間注いでくださった慈しみを大変嬉しく思っています。 私はこれからあらゆる仏様を守り、その教えを守る人々を救う天上界の神になるのです。

私はこの山に留まり、多くの人々を救う事になるでしょう。私を失う悲しさはよくわかりますが、どうかあきらめてください。では、お父様、お母様さようなら。」 言い終ると、娘は再び帝釈天の姿となり、たくさんの神や仏がささげるようにして 空へと舞い上がりやがて見えなくなった。

長者夫婦は、この山に立派なお寺を建てて、帝釈天をまつり、山を喜見山と名づけ、摩尼寺と呼ぶようになったとさ。

帝釈天が降り立った言われる「立岩」
 
山中道好という元医者の怪力僧侶(その2)。


天正9年、鳥取城を攻めに豊臣秀吉がやってきた。策略家である秀吉は、鳥取城を落とすには まず、鬼門に当たる摩尼寺を焼き払ってしまおうと考え、数人の武士を送った。 しかし、道好の怪力の前に手も足も出ず、すごすごと帰ってきた。

秀吉は一計を案じ、加藤清正を使者として摩尼寺へ送った。 清正は山門をくぐり、道好と面談し、丁寧に挨拶してから、合戦で死んだ兵を供養して欲しいと頼んだ。 「どうもおかしい」と思いつつも、僧侶である限り法要を拒むわけにいかず、道好は清正について秀吉の本陣山に行き、読経した。

すると、どこからともなく、きな臭いにおいが漂い、見ると、摩尼寺あたりから煙が立ち昇っている。 「しまった、はかられたか。」 怒り狂った道好は、物凄い勢いで飛び出し、山道を駆け出した。

寺の程近い所で、ばったりと七人の武士に出会った。「おのれらだな火を点けたのは!」、道好はそう言い終わらぬ内に、傍に生えていた松の木を根こそぎ引っこ抜き、 武士を一人残らず打ち殺してしまった。

さて、飛ぶようにして寺に帰ってみると、大きな寺は跡形も無く焼け落ちてしまい、灰になっていた。しばらく呆然と立ち尽くしていた道好だったが、はっと我にかえり、 「ご本尊さま、ご本尊さま。どこにおられますかあ。」と、声をかぎりに探したのだった。

「道好、ここにおるよう。わしゃあ、ここじゃ。心配するな。」 声のする方を見ると、不思議や、山一つ越えた向こうの谷に、ご本尊の帝釈天がすっくと 立っておいでだった。道好は大喜びしながらお迎えに行き、ご本尊さまを背負って山に帰った。 ご本尊さまは、不思議な力をお持ちなので、難を逃れたのだ。 今でも、ご本尊さまが火事から逃れたその谷を「飛渡谷」と呼んでいる。

ところで、その後道好はどうしたかというと、僧侶でありながら殺生をしたこと、秀吉の策にはまり大切な寺を焼いてしまったという気持ちに責められ、山のふもとに穴を掘り、断食し、 7日7晩お経を唱えつづけ、そのまま生き絶えてしまった。
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