『その昔、鳥取市のシンボル久松山(きゅうしょうざん)山麓一帯は因幡(いなば)国邑美(おうみ)郡鳥取(ととり)郷と呼ばれていました。
戦国時代、その久松山に城ができ鳥取城と呼ばれ、城下が鳥取藩となりました。そして廃藩置県により鳥取藩が鳥取県となって現在に至っています。 さて、そもそもの「鳥取」とは何なのかということですが、大和朝廷に直属していたといわれる職業集団の一つ、白鳥を捕獲して朝廷に献上する 人たち「鳥取部(ととりべ)」に由来しています。』 分かりやすくまとまっていて、なるほどなあと納得してしまいますが、面白いテーマですから、もっと突っ込んで調べたら鳥取に関する興味深い 雑学がいろいろと紹介できるような気もします。 例えば、鳥取県という名の直接の由来となっている「鳥取藩」。皆さんは、この鳥取藩という名称が初めて公式に使われたのは次のどの時代か、 ご存知でしょうか? (1)戦国時代 (2)江戸時代 (3)明治時代 常識的に考えれば、幕藩体制が確立された(2)の江戸時代が答えのように思えますね。つまり、1617年に播磨から転封され因幡・伯耆32 万石(ほぼ今の鳥取県全体にあたる領地。ただし大山寺領3千石は除く)を統治するようになった池田光政や、1632年に突然の国替えによって 備前から移ってきた池田光仲などの時代です。 あるいは、鳥取城の築城が江戸時代より前の天文年間(16世紀半ば、因幡守護の山名氏による)ということを知っている方は、「ひょっとした ら、(1)の戦国時代にすでに鳥取藩が存在していたか。」と想像をたくましくされたかもしれません。 でも、正解は(3)の明治時代。「意外なことに、じつは江戸幕府は藩という呼称を、一度も公式には使用していない」(勝田政治『廃藩置県』 (講談社))のだそうです。「藩」という言葉は、中国(周)の封建制度で使われていたもので、江戸時代の日本では主に「儒学者のなかで、用い られていたにすぎないものであった。」とのこと。 一方、明治維新政府は、明治元年公布の政体書の中で、府・藩・県という地方行政区分を規定しています。その後、版籍奉還(同2年)を経て同 4年には廃藩置県が断行され、藩は消滅しました。つまり、歴史上「鳥取藩」が公式に存在したのは、明治初めの短い期間だけということになりま す。 ところで、鳥取藩が正式な言い方でなかったのなら、江戸時代の鳥取人たちは、自分たちの藩をいったいどう呼んでいたのだろう?そんな素朴な 疑問が湧いたので、県総務課県史編纂室の坂本室長にうかがいました。 「江戸時代の大名領は、今の県とは違って単なる地理的な区分ではありません。殿様の支配地です。だから、「松平相模守様御領分」といった言 い方が正式です。自分の出身や住んでいる場所を言うときには、古くから伝わる因幡国○○郡○○村といった言い方が使われていました。」という ことでした。 松平相模守というのは、池田家の大名(の多く)につけられた官職です(ちなみに、相模守といっても神奈川県の相模地方とは特に関係ありませ ん)。平たく言うと「池田の殿様の土地」というのが「鳥取藩」に相当する正式名称になるということですね。さすがに封建時代、現代との感覚の 違いに驚きます。 |
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